第4話 tom misch 〜登場〜

夜、家へかえる途中で聴く。


そうすると、いつもの暗い道が


なんとなく、わるくないものに見えてくるのだった。


トム・ミッシュというひとが作った


『Geography』という一枚の盤のことだ。

だれかがぼくに


「あのころのロンドンはどんなだったかね」


と尋ねたら、


ぼくはこのまるくて黒い板を黙って差しだすだろう。


たいそうに威張ってはいない。


大声を出すわけでもない。


それなのに針をおろした途端、


部屋のすみの空気が、ふっとやわらかくなる。

へんな音楽である。


ごちゃごちゃ混ぜて、さっぱりしている

ジャズだとか、ヒップホップだとか、

むずかしい名前のついたものが


この箱の中にはたくさん詰まっている。


ふつうなら喧嘩をはじめそうなものだけれど、


トム・ミッシュの手にかかると

みんなどこかへ行ってしまって、


ただのきれいな景色だけが残るのだった。

だから何度聴いても耳がくたびれない。


お茶をのむように、身体に入ってくる。


バイオリンと、手づくりの音


トム少年は、はじめバイオリンを習っていた。

きれいな音の出し方を、身体で知っていたのだ。

けれど、

ある日J・ディラという人のへんてこなリズムに出会ってしまった。


少しだけつまずくような、


うしろにのめるような、おかしなビート。


完璧でないからこそ、なんだか親しみが持てる。


トム少年は自分の小さな部屋に閉じこもり、


機械をいじりながら、だれにも似ていない音を作りつづけた。


狭い部屋からでてきた音が、

いまや世界のあちこちで鳴っている。


ギターをひとつ、ぽろんと鳴らす


トム・ミッシュのギターはよい。


あまりたくさんは弾かない。


ぽろん、とひとつ鳴らすだけで、

あ、トム・ミッシュがそこに居るな、とわかる。


欲をださないこと。


引き算をすること。


それがこのアルバムの、いちばん良いところかもしれない。


ロンドンの街の、若いひとたち


あの頃のロンドンでは、


若い人たちが勝手に集まっては、へんてこな音楽を作っていた。


りっぱなスタジオなんか行かない。


自分の部屋でつくる。


会社のおじさんの言うことはいっさい聞かない。


気のおけないお友達と一緒にやる。


ロイル・カーナーも、ポピー・アジュダも、


みんなトムの部屋へ遊びにやってきた。


だれがやってきて歌っても、


部屋の主であるトム・ミッシュの匂いは消えなかった。


つくづく、ふしぎなマンである。


ふたつの好きな曲


『South of the River』


夕方の街をあてもなく歩いているような気持になる。


古いヴァイオリンの音と、弾むようなリズムが

かみ合わさって、とてもよい。


『It Runs Through Me』


「音楽が身体のなかを流れているよ」


と、トムは力をぬいて歌う。


おじさんラッパーとの掛け合いも、どこか楽しそうである。


いつでも、いつまでも


はやりものは、すぐに古くなる。


着られなくなった古着のように。

けれど、この盤はちがう。


きちんとお稽古したメロディと、

へんてこで温かいリズムと、


ロンドンの湿った風が、ちょうどよく混ざっている。


何年たった今聴いても、少しも古くならない。


まるで、最初からそこにあった置物みたいだ。


今夜、帰り道にイヤホンを耳につっこんで、

この再生ボタンを押してみるといい。


いつもの見慣れた電信柱や、街灯のあかりが、

すこしだけ愛おしく見えてくるかもしれない

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