第11話

 光陵歴一五四年



 時は大きく遡る。

 漁師の青年と漂着した異国の少女が出会って別れるよりも、ずっとずっと昔の、島の北東、艮の地の、冬のこと――



 史郎(しろう)は、学問が好きだった。

 物心ついた頃に父親から本を与えられ、それからずっと自分の裡に知識を吸収することが楽しくて仕方なかった。

 生まれてから二十年ほど。学び始めてからはおそらく十五年ほどだろうか。学べば学ぶほど、学び足りないことが増えていくような気すらしていた――


「史郎様!」


 背後からの若い娘の声で、史郎は立ち止まる。

 先を急いでいるところだったが、それは止まらざるを得ない相手だった。史郎は後ろの相手に気取られぬように小さく嘆息してから、ゆっくりと振り返った。


 木枯らしの吹きすさぶ中、許嫁の娘、弓音(ゆみね)が胸に何かを抱えて走ってくるところだった。髪を乱し、荒い息をしながら、村から伸びる道をずっと駆けてきたようだった。

 史郎の傍まで駆け寄ってきた弓音は、ふうふうと息を落ち着けてから、胸の荷物をぐいと差し出した。


「史郎様、忘れものです」


 そう言って元気よく示されたのは、塾で使う教本だった――先ほど、史郎がわざわざ部屋の机に置いてきたものだ。

 史郎は出かかった尖った言葉を口の中で柔らかくしてから、ゆっくりと言い聞かせた。


「……弓音。これは今日は使わないものだ」

「え、」


 ぽかんと口を開けて固まってしまう弓音。やがて粗相に気づいて口元を手で隠した。


「そ、そうだったのですか……申し訳ありません。先ほど史郎様のお部屋にお掃除に入ったところでこれを見かけて――これがなければ史郎様がお困りになるのかと思って」


 そう言ってしょんぼりと項垂れる弓音。

 小さく震え、泣く寸前のような――いかにも、相手に許してほしいという少女じみた仕草。史郎は舌打ちしたいのを堪えて、弓音の肩に手をのせる。


「いえ、私を心配してくれたのだな。気遣いありがとう」


 それだけで、弓音はぽっと頬に朱を灯す。肩の手をちらりと見て、はにかむ。


「では、行ってくる。君は母についていてくれ。それは机に戻しておくように」

「はい。史郎様、今日は夜にはお戻りになりますか?」

「ああ」


 そんなそっけない返事でも、弓音は花が咲くように嬉しそうに笑う。


「ではお母さまと一緒に夕餉をお作りしてお待ちしておりますね」

「いや、遅くなる。先に食べて休んでいてくれ」

「そういうわけにはいきません。わたしが史郎様とご一緒したいのです」

「……そうか」


 それだけを言って、史郎は許嫁に背を向けた。遅れを取り戻そうと速足で歩き始めたが、少し歩いたところで再び背に幼い声が飛んでくる。


「史郎様!」

「お勉強、頑張ってくださいね。いってらっしゃいませ!」


 明るい声で返事をする気力がわかなかった。史郎は口の端を上げ、手を振って応えてから足早にその場を去った。木枯らしが吹き付けてきて、指先から熱を奪っていく。

 目指すは近くの宿場町で開かれている塾だった。



 結局史郎は塾の始業時間に遅れてしまった。

 ちょうど弓音に呼び止められた分だけ遅れたというわけではなかったが、その遅れによって往路の様々なところで少しずつ噛み合わなくなり、便乗できる荷馬車なども見つからずじまいだったのだ。


 宿を改装した講堂に遅れて入ってきた史郎は悪目立ちをして講師には小言をもらい、許嫁と一つ屋根の下に住んでいることを知っている学友にはにやにやと何やら下世話なことを勝手に想像されたようだった。

 この塾は、白の院の官吏を目指す者達が様々な学問を修める場だった。

 島の歴史から算術、島外の知識まで。講師は白の院を勇退した老人で、外にも幾人かの知識人が史郎たちの講座を受け持ってくれている。


 十余人の学徒の中で、史郎は一等優秀だった。

 講師が推薦してくれれば次の春には白の院から声がかかるだろうと誰もが言っている。自分自身もそのつもりだったし、艮の生家を出て都へ移る用意をひそかに進めているところだった。

 今日は各州の経済状況などの講座だった。

 日没までみっちりと知識を詰め込み意見を交わす。どこに行っても、どんな風向きでも家畜の臭いが流れてくる自分の村と違い、ただひたすらに英知のために張り詰めた塾の空気が、史郎はたまらなく好きだった。



「かわいい女房が朝から離してくれなかったか」


 講座が終わってすぐに、隣で始終意地悪そうににやにやと笑っていた男、学友の蘇馬(そうま)が寄りかかるようにして話しかけてきた。

 史郎は黙ってその手を振り払って立ち上がる。弓音の編んだ襟巻をつけ、外に出ようとしたところで蘇馬が追いつき、再びなれなれしく話しかけてくる。


「家まで歩いて帰るのか?」

「そうだ」

「もう、こっちに住めばいいだろう。嫁さんだって姑抜きで暮らせるなら喜ぶだろうさ」


 蘇馬は二十の史郎と変わらない年のはずだが、へらへらと笑っていることが多くどこか幼い印象を受ける男だった。

 天の糸にも納品をしている由緒ある商家の次男坊だとかで、この近くで気楽に下宿しているのだという。史郎が抱えている問題の重さなど全く経験したことがなさそうだった。


「母が煩くてな。勤めでもないのだから家長として必ず家に帰れと。守らねばならんほどの家でもないのだが」

「そうは言っても来年には都入りするだろう。どうするつもりだ」

「さすがに白の院から招聘されれば、母の言う家の格とやらも上がるだろうから反対はすまい」

「そうしたらかわいい嫁さんと晴れて水入らずか。羨ましいねえ」


 史郎はそれに返事をしなかった。

 弓音は可愛らしい娘だとは思う。史郎よりも三つ年下、少し小柄で、目はくるりと丸い。愛嬌のある顔立ちで、一生懸命ひたむきに史郎にふさわしい妻になろうと努力をする。


 だがその可愛らしさから娶って恋女房にするというわけでは決してない。

 史郎が弓音を許嫁にしたのは、ひとえに弓音の出自――彼女の亡き祖父がかつて白の院の役人をしており、その伝手で塾に口利きが利くという点を見込んだというだけだった。


 全く愛着がないというわけではない。両親までを早くに失っている弓音は花嫁修業だとかで祝言の前から家に出入りしており、姑となる母の言いつけを守って一生懸命史郎の妻になろうとしていることも知っている。

 ただ、自分の中の最上に据えられているのは、家や家族ではなく、白の院なのだ。自分の能力を余すところなく活かせるのは、白の院しかないと確信をしていた。


 その日、史郎は夜半に帰宅をした。

 離れに引っ込んだ母は就寝しているようだったが、弓音はやはり律儀に明かりもともさず月明かりのなかでじっと史郎を待っていた。主の帰宅で明かりを取り戻した食堂で、腹に優しい夕餉をそっと差し出してくる弓音のことを、うまかったと告げるだけで花が咲いたような笑顔になる彼女のことを、少なからず好ましく思っていることを再確認した。

 

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