第4話 目覚め ④
「これ…誰…」
「君だよ。君…」
「嘘だ…だって…」
彰朗が突然、鏡を俺に渡した。
朝。
いつものように賢治が食事を持ってきてくれた。
今日も天気がいいらしい。
小さな丸い二つの窓から差し込む日差しが眩しい。
まだ何が食べたいか思いつかないのに、賢治の作るご飯は本当に美味しいと思う。
あんなに腹が減らなかったのに、勧められるまま重湯をひと口食べてからは少しずつ食べられるようになって――
一口入るともっと欲しくなる。
今まで、なんで食べることを忘れていたのかと思うくらいだった。
賢治が笑う。
「よかった〜…ほんと。蒼井君が食べれるようになって」
「ん…」
「蒼井君ってさ、ものすごく美味しそうに食べるよね。ははっ、そんなに頬張ったら喉につっかえるよ」
「んぐっ…」
案の定、咽た。
背中を叩いてくれる賢治がなんだか嬉しそうで、俺もつられて笑った。
─── お前ってさあ…ほんと美味そうに食うよな…もっとゆっくり食えって…
「…………」
「どうかした? また頭…、痛い?」
「いや…、大丈夫…」
……………。
誰…
誰なんだろう…。
以前…そう言われたことがある。
笑って…俺の顔を見ながら嬉しそうに…
俺も嬉しくて…その顔を見ていたら…。
「違う…、俺じゃ…ない…」
「驚かないで、っていうのは無理だと思うけど…」
自分でも分かる。
肩が――震え出していた。
俺の肩に彰朗の掌がそっと置かれた。
「お前…なにを…言ってんだよ…、これが…俺なわけ…ない…」
「そう思うのは当然だよ。でも―」
賢治が皿を片付けに出ていった後だった。
代わりに入ってきた彰朗に、いつものように注射を数本打たれた。
もうだいぶ慣れたはずだった。
注射の後は身体の調子もいいし、気分も落ち着く気がする。
なのに――
なんの前触れもなく、彰朗が。
これが。
“これが俺だ”と。
鏡を渡して、そう言った。
「嘘…だ…、嘘…、なんかの間違い…だろ…」
「正真正銘。蒼井雅晴だよ。これからずっと……この人が君なんだ」
「う……そ…、嘘だ…!」
肩に置かれた手を振り払って鏡を放り投げた。
ガシャン、と割れる音が痛いほど響く。
扉が勢いよく開き、驚いた賢治が駆け寄ってきた。
「えっ…、蒼井君!? どうしたの? 何があったの?」
「……違う…。違うのに…、こいつが…」
震えが止まらない。
怖くて怖くて…。
最初に目覚めたときの夢と同じだ。
悪夢だ。
そうに決まってる。
俺は夢を見ているんだ。
長い長い……夢。
まだ覚めないから、こんな思いをしているんだ。
「っ……」
膝を折り曲げて顔を押しつけ、
両耳を塞いでベッドの上で縮こまった。
何も……
何も聞きたくない。何も見たくない。
あんなに自分のことを知りたかったくせに、今は……
知りたくない。知らなくていい。
「ね…蒼井君、大丈夫だから…僕がいる…、彰朗さんだって…だから…、だから…」
「…………」
名前だけは思い出したけれど、それ以外は何も分からない。
本当は――最初から感じていた。
“俺じゃない” という違和感を。
気付いていたのに、認めたくなくて。
怖くて。
足元から何かが崩れ落ちるような感覚に耐えられなくて。
「今の姿が君にとって“君自身”に見えないのは分かる。けれど…、蒼井雅晴“本人”であることは変わらない。どちらも……君だ」
「…………」
彰朗の声は抑揚がなく、感情も読めない。
なのに――
初めて聞いたときはあんなにイラついたのに、今は不思議なくらい穏やかに、優しく感じた。
震える身体で首を横に振ることしかできない俺とは大違いだ。
「蒼井君…もう一度、よく見てみて。大丈夫だから。ね…、僕も傍にいるから」
「…………」
賢治の声が震えていた。
そのことに気づいて、胸が締めつけられる。
顔はまだ上げられない。
でも鼻先だけずらして賢治を横目に見ると、今にも泣き出しそうな顔で……
それでも俺を安心させようと無理に笑ってくれていた。
「けん…じ…」
「ね?」
その顔に後押しされて、ゆっくりと顔を上げる。
せめて賢治が泣かない程度には――
俺もちゃんと応えてやりたいと思った。
「蒼井君……これ。もう一度。つらいかもしれないけど…」
「……………」
まるで投げつけることを予測していたかのように、同じ鏡がもう一枚用意されていた。
賢治はそれをそっと俺の両手に握らせ、まっすぐ俺の顔を覗き込んで、大きく頷いた。
「…………」
ゆっくりと――
目を向ける。
そこにいたのは。
「どっか…で…」
っ…。
あの人だ。
目覚めた日の朝、ベッド越しに見えた“あの人”。
「この…顔は…」
鏡に映るのは――俺?
大きな目。
くっきりした二重。
長い睫毛。
茶色くて柔らかい髪。
俺よりも長くて、光に透けて…。
そしてなにより。
すごく…
すごく…
辛そうな顔をしていた。
初めは女の子に見えた。
でも違う。
もっと大人の…綺麗な人。
「これが…俺…?俺だって…言うのか…」
「そうだよ、蒼井雅晴。もし“違う”と感じるなら…それは――」
「っ…違う…俺じゃない…でも…」
なぜだ。
なぜなんだ。
“知らないはずの何か”が、胸の奥で反応する。
「ま…さか…」
「そう」
理解が追いつく前に、脳の奥で“知っていた感覚”が点灯する。
カチッ、と音を立てて、すべてが正しい位置にはまるような。
「それは…未来の君だよ。27歳の…10年後の蒼井雅晴」
「!?」
彰朗は微動だにせず、まっすぐ俺を見据えた。
震えが止まらない。
でも…分かってしまった。
これは“間違い”なんかじゃない。
納得と恐怖が同時に胸を満たしていく。
1.mezame-end-
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