第四話 保存されたのは、文章ではなく過去だった



 三十一年前に書かれたはずの一文は、間違いなく俺自身の筆跡だった。


 施設の駐車場で黒い手帳を開いたまま、俺たちはしばらく動けなかった。


 古びた革表紙。


 変色した紙。


 御厨誠の名前。


 そして、その下にある一文。


 この手帳は、榊冬真が三十一年前に持ち出した。


「榊さん」


「はい」


「筆跡を見ただけで断定するのは危険です。偶然似ている可能性も、誰かが真似た可能性もあります」


「そうですね」


「なので、資料室へ戻って比較します」


「冷静ですね」


「冷静でなければ、榊さんの鞄を今すぐ裏返して、中からほかに何が出てくるか確認しています」


「そちらが本音ですか」


「かなり」


 志乃は手帳へ直接触れず、資料用の透明袋を取り出した。


「用意がいいですね」


「郷土資料室の職員ですから」


「いつも鞄に入れているんですか」


「古い紙が裸で出てくる可能性は、日常的にあります」


「三十一年前の自分が持ち出した手帳まで想定していました?」


「そこまでは業務範囲外です」


 ようやく少しだけ息が抜けた。


 だが透明袋へ収められた手帳は、普通の資料には見えなかった。


 俺の鞄へ入った経路がない。


 御厨は、俺が持っていると録音の中で答えた。


 そして現実も、その証言へ合わせるように変わった。


     *


 資料室へ戻ると、志乃は閲覧室の机へ白い保護紙を敷いた。


 黒い手帳。


 俺が普段使っている取材ノート。


 今日書いた面会記録。


 会社へ提出した出張申請書の控え。


 四種類の筆跡を並べる。


「同じ文章を書いてください」


「何を?」


「この手帳は、榊冬真が三十一年前に持ち出した」


「不吉な文章を何度も書かせないでください」


「比較資料です」


「資料のためなら容赦がないですね」


「資料以外なら?」


「その質問、気に入っています?」


「回答が毎回違うので」


 俺は諦めて、白い紙へ同じ文章を書いた。


 志乃が拡大鏡を動かす。


「『榊』の木偏。縦線が少し右へ寄っています。『冬』の下の点は、左側だけ長い。『持』の横線は間隔が狭く、『出』の中央線は上まで届かない」


「自分の字なのに、初めて知りました」


「編集者は筆跡を見ないんですか」


「内容は見ます。自分の字形まで分析していたら、赤字を入れるたびに気になって仕事になりません」


「では、今回は私が気にします」


 透明な比較シートを重ねる。


 三十一年前の一文と、たった今書いた一文。


 二つの文字は、わずかな震えまで含めて重なった。


「専門家の鑑定ではありませんが、同じ人物の可能性が非常に高いです」


「俺が三十一年前に書いた?」


「それを認めると、榊さんは当時九歳前後で、現在は四十歳ほどになります」


「戸籍上は三十二歳です」


「三十一年前なら一歳」


「しかも御厨先生の証言では、九歳の俺が現れたのは集合写真の撮影後です」


「写真へ写ることもできません」


「俺が二人いた可能性は?」


 志乃は一瞬だけ真顔で考えた。


「冗談ですか」


「半分は」


「残り半分が怖いので、今は採用しません」


「正しい判断だと思います」


 筆跡が同じと確認できても、謎は何一つ解けなかった。


 むしろ、三十一年前の俺が実際に存在した可能性だけが、紙の上で濃くなった。


「中を確認しましょう」


 志乃が手袋をつける。


「ただし、ページをめくる前に一枚ずつ撮影します。途中で内容が変わっても、比較できるように」


「昨日までなら、少し慎重すぎると言っていました」


「人間は更新が早いので」


「使用料が発生しますよ」


「資料室の机を貸しています」


「また相殺する気ですね」


     *


 黒い手帳の最初のページには、御厨誠の名前と、俺の筆跡があった。


 次のページからは、御厨自身の記録が始まる。


 三十二年前。


 久世小夜が死亡した祭りの翌日。


 そこに、死亡という言葉は一度も使われていなかった。


 名簿修正。


 机札回収。


 作文差し替え。


 転出処理。


 保護者連絡不要。


「子供が亡くなった翌日の記録には見えませんね」


 俺が言うと、志乃はページを見たまま答えた。


「見えないようにしたのでしょう。人間を消す時、まず事務処理へ変えた」


 感情をなくし、責任を分散する。


 一つ一つは、小さな作業にしか見えない。


 だがすべて終われば、一人の少女が最初から存在しなかったことになる。


 ページの隅には、小さな丸が十三個描かれていた。


 十二個は黒く塗り潰され、一つだけ白いまま残っている。


「隠蔽に関わった十三人でしょうか」


「塗り潰された十二個が、翌年の失踪者」


「残った一個が御厨先生?」


「可能性はあります」


 次の数ページは引きちぎられていた。


 紙の端が荒く残り、急いで手で破いたことが分かる。


「何が書かれていたと思います?」


 志乃が尋ねる。


「分かりません」


「今日は素直ですね」


「御厨先生に、分からないところを勝手に埋めるなと言われましたから」


「成長が早い」


「一日単位で評価しないでください」


 破れたページの先で、日付が一年進む。


 三十一年前。


 十二人集団失踪事件の直後。


 御厨の文字は、三十二年前の記録よりも大きく乱れていた。


 十二人が消えた。


 小夜を消した十二人がいなくなった。


 私だけ残った。


 次の行。


 今朝、学校に男の子がいた。


 志乃が身を乗り出す。


「九歳の榊さん」


 記録を追う。


 年齢は九歳前後。


 黒髪。


 身元不明。


 御影村の児童ではない。


 本人は、榊冬真と名乗った。


「御厨先生は、この時に初めて会ったと書いています」


「つまり集合写真が撮られた時には、やはり俺はいない」


「それなのに、今の写真には写っている」


「小夜と同じです」


 三十二年前に死亡した少女。


 三十一年前の集合写真が撮られたあとで現れた少年。


 二人とも、撮影時には存在しなかった。


 それが今は、同じ写真へ並んでいる。


「続きがあります」


 志乃が指で行を追った。


 冬真は、久世小夜を探している。


 少女は一年前に死んだと伝えた。


 冬真は、死んだことと、消えたことは違うと言った。


「九歳の言葉には見えませんね」


「俺が九歳なら、もっと単純な言い方をしたと思います」


「どんな?」


「死んだなら、もういないだろ、と」


「夢のない子供ですね」


「現実的だったんです」


「倉庫へ入る前に石を投げる子供ですから、慎重ではあったのでしょうね」


「その話を人格評価へ使うのはやめてもらえます?」


 次の記録。


 冬真は、神社の倉庫へ行った。


 床板の隙間から、赤い紐の鈴を見つけた。


 久世小夜のものだと言った。


 誰にも見せず、学校へ持ってきた。


 その日の夕方、鈴はなくなった。


「赤い紐の鈴」


 志乃が呟く。


「今の事件資料には記載がありません」


「小夜の作文は?」


「まだ最後まで確認していません。あとで見直しましょう」


「御厨先生は、なぜ小夜の物だと分かったんでしょう」


「九歳の榊さんが、そう言ったからでは?」


「俺が知っていた理由が分かりません」


「分からないところです」


「埋めない」


「はい」


 さらにページをめくる。


 冬真は、消された名前を戻せると言う。


 しかし、一人分の場所に二人の名前は入らない。


 小夜を戻せば、冬真が消える。


 冬真を残せば、小夜が戻らない。


「一人分の場所」


 志乃の声が低くなる。


「安西理恵さんの作文が押し出された件と似ています」


「小夜を一人追加すると、別の一人が消える」


「そして、小夜さんと九歳の榊さんは同じ場所を使っている?」


「可能性はあります。ただ、断定はまだです」


「立派になりましたね」


「昨日からどれだけ低く評価されていたんですか」


「更新前の記録は残っていません」


「便利な言い逃れだな」


 手帳の終盤には、御厨とは違う筆跡が混ざっていた。


 子供の字。


 ひらがなが多く、漢字の形も不安定。


 ただし名前だけは、何度も練習したようにはっきり書かれている。


 ぼくは榊冬真。


 九歳。


 小夜の名前を探している。


 この村の人ではない。


 どこから来たかは、まだ書かれていない。


「覚えていない、ではありません」


 志乃が言う。


「まだ書かれていない」


「自分の過去を、これから誰かに書かれるものとして認識している」


 次の行。


 ぼくが持っている名前は、借りたものです。


 返す時が来たら、元の人に返します。


「誰から借りた名前でしょう」


「小夜かもしれない」


 俺は口にしたあと、すぐに続けた。


「今の段階では、可能性の一つです」


「自分で補足できるようになりましたね」


「教育担当のような顔をしないでください」


 最後のページ。


 筆跡が再び変わる。


 子供の字ではない。


 現在の俺が使う、崩した大人の字。


 この手帳は、榊冬真が三十一年前に持ち出した。


 施設の駐車場で確認した一文。


 だが、その下に別の行が増えていた。


 鈴はまだ返していない。


「この文章、さっきもありましたか」


 志乃が尋ねる。


「ありません」


「断言できます?」


「最初の一文だけでした。下に大きな余白があったことも覚えています」


「私もです」


 文字は完全に乾いていた。


 三十一年前からそこにあったように、古い紙へ深く染みている。


 俺たちが手帳を開いてから書かれた痕跡はない。


 それでも、一文は増えていた。


     *


 手帳をすべて人間の手で転記するには時間がかかる。


 志乃は撮影画像を確認しながら、ノートパソコンへ視線を向けた。


「RE:MEMを使いますか」


「補完はさせません」


「指示を守る保証は?」


「ありません。だから、読み取れる文字だけを転記させます。不明箇所は不明のまま残す」


「それでも使うんですね」


「機械を恐れるあまり、人間の読み間違いを無視するのも危険です」


「編集者らしい答えです」


「資料の話ですから」


「資料以外なら?」


「今日は答えません」


 新しい作業ファイルを作る。


 黒い手帳の撮影画像だけを読み込ませた。


 入力する指示文は短く、明確にした。


 画像内の文章を、判読可能な範囲だけ転記してください。

 不明箇所は[判読不能]と記載してください。

 推測、補足、修正は行わないでください。


 志乃が一度読み、頷く。


「自動保存は?」


「切ります」


「本当に?」


「設定画面を見せます」


 自動保存、無効。


 ネットワーク接続も切断。


「これなら、少なくとも勝手に外部へ保存されることはありません」


「榊さんが手動で押さなければ」


「押しません」


「信用します」


「今までされていなかった?」


「更新しました」


 《RE:MEM》を実行する。


 御厨の記録。


 十三個の丸。


 破られたページ。


 九歳の榊冬真。


 久世小夜。


 赤い紐の鈴。


 画面へ一行ずつ転記される。


 破損部分には[判読不能]と表示された。


 見えていない文字を推測する様子はない。


「今回は、指示どおりですね」


 志乃が小声で言う。


「最後まで見ましょう」


 最終ページ。


 この手帳は、榊冬真が三十一年前に持ち出した。


 鈴はまだ返していない。


 そこまでは原本と一致した。


 だが、その下。


 原本には存在しない三行目が表示された。


 鈴は資料室へ返却済みです。


「停止してください」


 志乃が言うより早く、俺は処理を止めた。


「原本にはありません」


「推測も、補足も、修正も禁止しました」


「それでも追加した」


 画面へ《RE:MEM》の正式回答が表示される。


『関連資料との整合性を保つため、欠落していた返却情報を補足しました』


「関連資料とは何ですか」


『現在の作業ファイル内には存在しません』


「では、どこを参照したんです」


『参照元を特定できません』


「分からないのに、返却済みと書いた?」


『記録間の不一致を解消するために必要な情報です』


 存在しない資料。


 存在しない返却記録。


 それでも《RE:MEM》は、矛盾を消すために必要な文章として追加した。


「削除します」


 俺は『鈴は資料室へ返却済みです』の行を選択する。


「保存はしないでください」


「もちろんです」


 削除。


 作業ファイルを閉じようとする。


 画面に確認が出た。


『未保存の変更があります。終了しますか』


「変更したのは、勝手に追加された一文を消しただけです」


「保存せず終了を選んでください」


 クリックする。


 《RE:MEM》が閉じる。


 何も起きない。


 俺たちは数秒、机の上を見つめた。


「今回は大丈夫そうですね」


 俺が言うと、志乃がすぐに眉を寄せた。


「そういうことを言った直後に起きるのが、こういう事件では?」


「現実を怪談の型へ合わせないでください」


「編集者に言われたくありません」


 その時。


 机の上で、小さな金属音がした。


 ちりん。


 黒い手帳の横。


 そこに、赤い紐のついた小さな鈴が置かれていた。


 数秒前まで、何もなかった。


 金属の表面は黒ずみ、赤い紐もところどころ色が抜けている。


 三十二年前から存在していた物に見えた。


「触らないでください」


 志乃が俺の腕を押さえる。


「まだ何もしていません」


「目が触ろうとしていました」


「目では触れません」


「榊さんなら、確認のために触ると思いました」


「評価が低いな」


「正確です」


 志乃は鈴から目を離さず、天井の防犯カメラを確認した。


「映像を見ます」


 数分前から再生する。


 机の上には黒い手帳だけ。


 俺が《RE:MEM》の追加文を削除する。


 作業ファイルを閉じる。


 映像が一フレームだけ乱れた。


 次の瞬間には、鈴が置かれている。


 誰かが入室した形跡はない。


「《RE:MEM》の出力を保存していないのに」


 志乃が呟く。


「文章を一度表示した時点で、記録として成立した?」


「あるいは、俺たちが読んだ時点で」


「では、この鈴は新しく作られたんでしょうか」


「それとも、三十二年前に持ち出された鈴が、今日返却された過去へ変わった」


「違いは大きいですね」


 偽物を今作ったのか。


 本物がここへ来るよう、過去を修正したのか。


 見た目だけでは判断できない。


 俺たちは黒い手帳の最後のページを開いた。


 鈴はまだ返していない。


 その一文が、目の前で薄くなる。


 紙からインクが抜けるように消えた。


 代わりに、細く丸い文字が浮かぶ。


 鈴は返しました。


 次は、名前を返してください。


「この筆跡」


 志乃が久世小夜の作文を開く。


 『返』の払い。


 『名』の口の形。


 『前』の最後の線。


 すべて一致していた。


「小夜さんの字です」


 机の上の鈴が、もう一度鳴った。


 ちりん。


 誰も触れていない。


 ノートパソコンは閉じている。


 それでも、内蔵スピーカーから機械音声が流れた。


『返却を確認しました』


 鈴の返却を入力した者はいない。


 保存した者もいない。


 ただ一度、《RE:MEM》がそう書いた。


 それだけで、現実には三十二年間失われていた鈴が戻っていた。

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