第25話「踏み込まない理由」

忍からの呼び出しがあって以来、晴の中には、これまでにない緊張感が、常に張り詰めていた。


灯の反応データを独自に調査すると告げた忍の言葉は、単なる警告ではなく、確かな予告のように、晴の中に重く残っていた。


国家という巨大な仕組みが、少しずつ、灯という一人の少女に向けて、その手を伸ばし始めている

――その感覚は、日を追うごとに、輪郭を濃くしていった。


支局の廊下ですれ違う職員たちの視線すら、以前より鋭く感じられる日があった。

気のせいだと自分に言い聞かせても、その違和感は、簡単には消えなかった。


だからこそ、晴は、自分の中にある感情と、これまで以上に、真剣に向き合わなければならなかった。


支局の自室、夜遅く。

晴は、机の前に座り、今日一日の観測記録をまとめながら、ふと、手を止めた。

窓の外は、すでに完全な闇に沈んでいる。

スタンドライトの淡い光だけが、机の上の書類を、静かに照らしていた。


灯への感情。

それが何なのか、晴はもう、名前をつけることを避けられなくなっていた。

灯の笑顔を見るたびに疼く胸の痛み、彼女の頭上の空が晴れるたびに感じる、これまでにない安堵

――それらすべてが、指し示す答えは、一つしかなかった。


俺は、灯を好きになっている。


その事実を、晴は、自分自身の中で、静かにけれど確かに認めた。

ペンを持つ手を止めたまま、晴はしばらく、その言葉の重みを、噛み締めるように味わっていた。

これまでの人生で、これほどはっきりとした輪郭を持つ感情を抱いたことはなかった。


だが、その感情を認めることと、それを言葉にして灯に伝えることの間には、途方もなく大きな隔たりがあった。


晴は、灯の専属監視官だった。

国家が定めた規定の下で、灯の感情を観測し、管理する立場にある人間だった。

もし、その立場にある人間が、対象に個人的な恋愛感情を抱いていると公になれば

――それは、これまで玲や環が繰り返し警告してきた通り、灯自身を、さらに危険な立場に追い込むことになりかねない。


俺の想いが、灯を守るどころか、彼女を傷つける刃になるかもしれない。


その恐れが、晴の言葉を、いつも寸前のところで押しとどめていた。

晴は、書きかけの観測記録に、再び視線を落とした。だが、文字を追う目とは裏腹に、頭の中では、同じ問いが、いつまでも堂々巡りを続けていた。


翌日の夕方、晴は、いつものように灯と七番区の道を歩いていた。

夕暮れの光が、二人の影を、道の端に長く伸ばしている。商店街の店先で、店主が明かりを灯し始めていた。


「――晴さん、最近、考え事、多くないですか」


灯が、ふと尋ねた。

晴は、一瞬答えに詰まった。


「――そう、見えますか」


「見えます。前より、ずっと」


灯は、隣を歩く晴の横顔を、じっと見つめた。

その視線の強さに、晴は、思わず居住まいを正しそうになった。


「黒曜幹部のこと、まだ気にしてるんですか」


「――それも、あります」


晴は、正直に答えた。

だが、それがすべてではなかった。灯への想いを、どう扱えばいいのか

――その葛藤こそが、晴の中で、最も大きな比重を占めていた。

だが、それを、灯に伝えることは、まだできなかった。


「晴さんは、なんでも一人で抱え込みますよね」


灯の声には、僅かな苛立ちと、それ以上の心配が滲んでいた。歩調が、僅かに速くなる。


「一緒に調べるって決めたのに、晴さんが一人で悩んでること、私、全部知ってるわけじゃない」


「――すみません」


「謝ってほしいわけじゃなくて」


灯は、足を止め、晴の方を向いた。

夕陽が、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーを、橙色に染めている。

頬に落ちる影の濃さが、いつもより僅かに強く見えた。


「ただ、もう少し、頼ってほしいだけです」



その言葉に、晴の中で、何かが強く揺れた。

心臓の鼓動が、僅かに速まるのを、晴は自覚した。


頼ってほしい、という灯の言葉。

それは、単なる友人としての申し出ではなく、もっと深い、対等な関係を求める言葉のように、晴には聞こえた。


言おうか、と晴は思った。

今、この場所で。灯への想いを、初めて言葉にしてしまおうか。

喉の奥に、言葉の形をした何かが、確かにせり上がってくるのを感じた。


だが、その瞬間、晴の脳裏に、忍の冷たい声が蘇った。規定を逸脱するような真似は、決して許されない。

国家の安全を脅かすことは、断じて容認できない――その言葉が、晴の口を、寸前のところで塞いだ。

せり上がってきたはずの言葉は、行き場を失い、静かに、喉の奥に沈んでいった。


もし今、想いを伝えれば、灯との関係は、これまでとは決定的に違うものになる。

それは、喜びであると同時に、灯をより一層、危険な立場に追い込む選択でもあった。


「――晴さん?」


灯が、怪訝そうに、晴の顔を覗き込んだ。

晴は、その視線から、思わず目を逸らした。

夕暮れの光が、二人の間の沈黙を、いつまでも照らし続けていた。


「……何でもありません。少し、考え事をしていました」


その答えに、灯は、僅かに寂しそうな表情を見せた。

それは、一瞬だけ、頭上の光がわずかに翳るのと同時だった。

だが、それ以上は追及せず、再び、隣を歩き出した。


晴は、言葉を飲み込んだ自分自身に、静かな苦さを感じていた。

灯の笑顔を守るためにこそ、今は踏み込んではいけない

――そう自分に言い聞かせながらも、その理屈が、単なる臆病さの言い訳に過ぎないのではないかという疑念が、晴の中に、消えずに残り続けていた。


商店街を抜け、七番区の住宅街に差し掛かる頃には、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。

夕暮れの空の下、灯の頭上には、僅かに翳りを帯びた光が、静かに漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る