第18話
文明二年、犬塚信乃(いぬづか・しの)は十一歳になった。母の手束(たつか)が亡くなって三年。信乃は、病がちな父・犬塚番作(いぬづか・ばんさく)へ仕えていた。
番作は、村人から受けた恩を子孫へ返すため、水害と日照りへの備え、凶作時の食料、農業と養蚕の知識を一冊の書物にまとめた。
村の長老たちは喜んだが、村長の大塚蟇六(おおつか・ひくろく)は評判を妬んだ。書物を見せろと求めても断られ、番作の悪口を言った。
## 屋根から落ちた猫
番作の犬、与四郎(よしろう)は十二歳になっても強く、村中の犬を従えていた。
蟇六は何頭も犬を飼ったが、どれも与四郎にかみ伏せられた。そこで雉のような毛色の雄猫をもらい、紀二郎(きじろう)と名づけた。
*
ある日、紀二郎は小作人の糠助(ぬかすけ)の家の屋根で、ほかの雄猫と争った。けんかに負け、屋根から地面へ落ちる。そこへ与四郎が走り寄った。
紀二郎は背を丸め、爪を振るう。与四郎は顔をかわし、左耳へかみついた。
耳を失った紀二郎が逃げる。与四郎は小川のほとりまで追いつめ、首へ一撃を加えてかみ殺した。
蟇六は紀二郎の死骸を見て泣いた。
「番作だけでなく、飼い犬まで私を辱めるのか。与四郎を殺し、紀二郎の仇を討つ」
## 与四郎を渡せ
*
蟇六は小者二人と糠助を番作の家へ送り、与四郎を渡せと要求した。番作は断った。
「人間には法律があるが、獣は知らない。猫は鼠を食い、犬は猫に勝ち、犬も狼には勝てない」
番作は使いの者たちを見回した。
「犬を猫の仇として処刑するなら、猫も鼠の仇として処刑しなければならない」
誰も言い返さない。
「与四郎が蟇六の屋敷へ入り、座敷へ上がったなら、打ち殺されても恨みはしない。だが今回は、犬を渡す理由がない」
小者たちは何も言えず帰った。
蟇六は、与四郎を自分の屋敷へ誘い込み、竹槍で殺そうと考えた。屋敷内で殺せば、番作が示した条件に合う。
企みを聞いた糠助は、ひそかに番作へ知らせた。与四郎を遠い土地へ捨ててはどうかと提案する。番作は犬のために争いを起こしたくなかったため、糠助へ任せた。
糠助は与四郎を遠くへ連れていった。しかし二度、三度と試しても、与四郎は必ず主人のもとへ帰ってきた。
## 門前の芝居
信乃は悩んだ。
与四郎が殺されれば父は怒り、伯母夫婦との争いが大きくなる。
そこで糠助へ一つの策を話した。
蟇六の屋敷の近くで、紀二郎を殺した罪を大声で責め、与四郎を棒で打って追い返す。その姿を蟇六夫婦が見れば、番作親子が非を認めて謝ったと思い、怒りを解くかもしれない。
糠助は協力を引き受けた。
*
二人は与四郎を蟇六の門前へ連れていった。
糠助が紀二郎を殺した罪を大声で責め、棒を振り下ろす。信乃も歯を食いしばり、与四郎を打った。
だが与四郎には芝居と分からない。いつもかわいがる二人から突然打たれ、逃げ惑った。
家へ戻る道を外れ、蟇六の屋敷の裏へ走り込む。そこは袋小路だった。行き場を失った与四郎は、開いていた裏門から屋敷へ飛び込んだ。
すぐに門が閉まる。前門も閉ざされ、小者たちが用意していた竹槍を構えた。
糠助は逃げ、信乃は屋敷の外に残った。自分の考えを悔やむ信乃の耳に、中から苦しげな吠え声だけが届いた。
信乃は家へ戻り、すべて父へ話した。
「おまえは賢い。だが、その知恵で失敗したのは、相手の人間を知らなかったからだ」
番作は叱らず、静かに言った。
「亀篠(かめざさ)は心がねじれ、蟇六は人の才能を妬む。犬を打ってみせた程度で、怒りを解く者たちではない」
*
そのとき、庭の外で何かが倒れる音がした。
与四郎(よしろう)が血まみれで飛び込み、二、三歩進んだところで崩れ落ちた。
体には竹槍の傷がいくつも開いている。板塀の下を破り、ここまで逃げ帰ったのだ。
信乃はすぐにむしろを敷き、与四郎を寝かせた。口元へ水を運び、一つずつ傷へ薬をかけた。
「おまえを助けようと考えたのに、私のせいで死なせることになった。すまなかった」
蟇六の小者、額蔵(がくぞう)だけは、主人の卑しさを見抜き、与四郎へ槍を向けなかった。
## 蟇六の本当の狙い
蟇六が本当に狙っているものは、番作が守る名刀村雨(むらさめ)だった。
村雨は、結城合戦で殺された春王(しゅんおう)の形見である。蟇六は大塚家を名乗りながら、家系を証明する物を持っていない。
村雨を献上すれば、大塚家の当主であると認められ、恩賞も得られる。蟇六はそう考えていた。
信乃が犬を屋敷へ追い込んだのを、番作が争いを恐れて譲歩した証拠だと受け取った。糠助を利用して番作を追いつめ、村雨を奪う計画を亀篠へ話した。二人は糠助を屋敷へ呼び出した。
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