第12話
富山で二年目の冬も暮れ、草木が芽吹き始めたある日、伏姫は硯へ入れる水をくもうと、洞窟の外へ出た。伏姫は水際にかがみ、流れのよどみへ手を伸ばした。
水面に、自分の姿が映る。体は人間なのに、頭だけが犬になっていた。
伏姫は叫び、身を引いた。手からこぼれた水が、岸の土へ落ちる。
息を整え、恐る恐るもう一度のぞいた。水面にあるのは、いつもの自分の顔だった。
心の迷いが見せた幻だと思い、仏の名を唱えた。
だが、その日から胸が苦しくなった。月のものも止まり、月日がたつほど腹が張り、体が重くなった。
伏姫は、腹に水がたまる病だと思った。早く死ねればよいと願っても、死ぬことはない。春が暮れ、夏も過ぎ、秋になった。
## 二年の山暮らし
伏姫(ふせひめ)は、富山(とやま)の奥で二年を過ごしていた。この異変が起きるまで、山中では誰とも会っていない。
父の里見義実(さとみ・よしざね)が口にした約束を守り、里見家の政治に嘘がないと領民へ示すため、八房(やつふさ)に従った。伏姫と八房が住むのは、山と谷川に囲まれた洞窟だった。
伏姫は菅(すげ)を敷いて寝床を作り、山の木の実や蕨(わらび)の根を食べた。薄い着物は汚れ、破れていった。それでも来世の救いを求めて『法華経(ほけきょう)』を読み、紙へ写し続けた。
*
初めの夜、伏姫は八房を警戒していた。もし欲を抱いて近づけば、護身刀で刺し殺すつもりだった。
八房は伏姫へ近づかず、一晩中見守った。翌朝には谷へ下り、木の実と蕨の根をくわえて戻った。その後も一日も怠らず、伏姫の食べ物を集めた。
*
百日余りが過ぎるころ、八房は変わった。伏姫が経を読むと、そばに座って耳を傾けた。夜が更けても、伏姫へ近づこうとはしなかった。
伏姫はいっそう修行へ励んだ。朝には水晶の数珠(じゅず)を手に、洲崎(すのさき)の方角へ祈った。父母のために経文を書き、谷川へ流すこともあった。
## 笛の少年
ちょうど一年前の同じ月、伏姫は滝田城を出た。
自分の病よりも、母の五十子(いさらご)が心配だった。泣きながら見送った顔が忘れられない。父も、弟の義成(よしなり)も懐かしい。
伏姫は岩へ額を当て、声を上げて泣いた。
やがて涙をぬぐった。会いたいという思いを修行の力へ変えなければならない。
「過去、現在、未来の仏たちよ。弱い心をお許しください」
八房は食べ物を探しに出たまま、まだ戻らない。伏姫は重い体を起こし、仏へ供える菊を求めて谷川に沿って二、三町歩いた。そのとき、北西の山から笛の音が耳に届いた。
人の立ち入りを禁じられた山である。伏姫は、この二年、誰にも会っていない。笛の音が近づいた。
*
笛の音が木々の間から近づく。やがて林の中から、十二、三歳ほどの少年が現れた。腰に草刈り鎌を差し、籠をつけた黒い子牛へ乗っている。
少年は伏姫の姿を見ても笛をやめない。そのまま牛を川へ入れた。伏姫は呼び止めた。
「どこの里の子です。人の来ない山へ一人で入り、道にも慣れているようですね。私を知っていますか」
少年は笑い、笛を襟へ差した。
「もちろん知っています。あなたの方が、私を知らないのです。人のことも、あなた自身のことも、私が話さなければ、その疑いを解く者はいないでしょう」
少年は、伏姫が知らなかった山の外の出来事を語った。父の義実は、娘を人に見られないよう、富山への立ち入りを禁じた。母の五十子は娘を思い、侍女や乳母たちを何度も捜しに出した。
しかし最初に追ってきた蜑崎輝武(あまさき・てるたけ)が谷川で溺れ死んだ。それを知る皆は恐れ、向こう岸から引き返した。伏姫の安否を知ることはできなかった。
少年の師は富山の麓にいることも、洲崎にいることもあるという。病人へ薬を与え、過去や未来まで言い当てる人物だった。今日は師の命令で薬草を採りに来たらしい。師は、近いうちに山仕事が再び許されることも知っていた。
「父母の慈しみは、月や日の光のように、ここまで届いていたのですね。私一人のために輝武を死なせ、木こりや猟師から仕事を奪ってしまいました」
伏姫は涙を流した。
## 八人の子
*
少年の師が名医だと聞き、伏姫は自分の体について尋ねた。
春から月のものが止まり、胸が苦しく、月ごとに腹が大きくなっている。何という病なのか。
少年は伏姫の腹へ目を向け、微笑んだ。
「病ではありません。あなたは身ごもっています。もう五、六か月です」
伏姫は一瞬、言葉を失った。やがて、あり得ないと笑った。
「ませたことを言う子ですね。私に夫はいません。山へ入ってから一人の人間にも会わず、仏の名を唱え、経を読む以外、何もしていません」
少年は、八房が夫ではないかと返した。伏姫の笑みが消えた。
「私は八房と暮らしていても、『法華経』に守られ、身を汚されていません。八房も欲を捨て、経を聞くことだけを喜んでいます」
伏姫は腹をかばうように手を当てた。
「証人がいなくても、私は清らかです。神仏が知っておられます。八房の子を身ごもったなどと、汚らわしいことを言わないでください」
少年は首を振った。
「あなたは本当に犯されていません。八房にも今は欲がありません」
少年は静かに続けた。
「けれども、あなたは父の約束に従い、八房について山へ来ました。八房はあなたを妻と思い、愛するあなたが読むから経を喜びました。あなたも、八房が仏の道へ入ったことを喜び、憐れみました」
伏姫は黙って少年から目を離さなかった。
「二人の心が響き合ったのです」
「体の交わりがなくても、物と物の感応によって命が生じることがあります」
「あなたの胎内には、八人の子がいます」
伏姫の手が腹の上で止まった。
「ただし体の交わりで生まれた子ではないため、今はまだ肉体を持ちません。形のないまま、ここで一度生まれ、のちに別の場所で、もう一度人として生まれます」
少年は、八房の前世について語った。八房は前世で、義実を恨んだ心の曲がった女だった。その怨念が一匹の犬となり、里見家の親子へ恥を与えた。
一方、八房は伏姫を得ても、最後までその身を犯さなかった。伏姫の読む『法華経』を聞き、長年の恨みを捨て、悟りを求める心を起こした。
「八という数は、八房の八であり、『法華経』八巻の数でもあります。
のちに八人は知恵と勇気に秀で、忠義と信義と節操を守り、里見家を助けて関東に名を上げるでしょう。それはすべて、あなたが生み出した働きです。そのとき、誰が母であるあなたを軽蔑できるでしょう」
「犬はおよそ六十日、人は十月で子を産みます。二つを合わせて考えると、身ごもって六か月となる今月、八人の子は生まれるでしょう」
「今月に……」
「その時、思いがけず父と夫に会います。これより先を話せば、天の秘密を漏らすことになります」
少年は笛を襟から抜いた。
「私のあとに、別の人が現れ、八人の将来を知らせるでしょう」
少年は話を打ち切った。秋の日は短い。師が待っているから帰ると言い、黒い子牛の鼻を引き返した。
牛を谷川へ入れ、渡り始める。牛の脚が水を分ける。その姿を白い霧が包み、笛の音も遠ざかった。
伏姫は目を凝らした。霧が薄れたとき、少年も牛も、どこにもいなかった。
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