第3章 直面する現実

1

​美咲の実家である静岡からの帰り道、新幹線の車内は沈黙に包まれていた。

窓外を流れる夜景を見つめる美咲の横顔は硬く、悠斗もまた、手すりを握る手に力が入っていた。

​還暦祝いの席は、地獄のようだった。

美咲の父親は、悠斗が差し出した「公正証書(財産管理や医療同意に関する契約書)」の控えを一瞥もしなかった。

『こんな紙切れが何になる。事実婚? 聞こえはいいが、要するに責任を取りたくないだけだろう。美咲、お前も30を過ぎてフリーランスなんて不安定な仕事をしていて、もし高瀬くんに捨てられたらどうするんだ。名字が変わるのが嫌だなんて、わがままだ』

​悠斗は必死に反論した。自分たちがどれほど真剣に将来を考えているか、美咲のキャリアを守りたいかを伝えた。しかし、父親の「娘の将来を心配する(しかし極めて保守的な)正論」を切り崩すことはできなかった。

​「……ごめんね、悠斗」

美咲がぽつりと言った。声が震えている。

「お父さんの言うことも、一理あるのかなって、一瞬思っちゃったの。私が意地を張っているせいで、悠斗に席であんな惨めな思いをさせて……」

​「そんなことない。美咲のせいじゃないよ」

悠斗は慰めたが、彼自身の心にも冷たい棘が刺さっていた。

(もし俺たちが籍を入れていたら、あんな風に侮辱されることはなかったのだろうか。「普通の結婚」という免罪符さえあれば、あんなにも簡単に認められたのだろうか)

​ふたりの間に、これまでになかった「制度への疲弊」という影が落ち始めていた。

​2

​その夜、事件は起きた。

真由が勤務する総合病院の夜勤帯。激務が続く中で、真由は激しいめまいに襲われ、そのままナースステーションの前で倒れてしまったのだ。急性過労による意識混濁だった。

​同僚からの緊急連絡を受けた翔は、動転しながら結菜を連れてタクシーで病院へ駆けつけた。

​「小田島真由の家族です! 真由はどこですか!?」

受付で叫ぶ翔に、夜間窓口の事務員は冷ややかに対応した。

「……失礼ですが、小田島様とのご関係は?」

​「同居しているパートナーです。事実婚の関係にあります」

「申し訳ありません。規約上、集中治療室(ICU)への面会および現在の病状のご説明は、法的な配偶者、または三親等以内の血族の方のみとなっております」

​「そんな……! 彼女のブログの緊急連絡先にも、俺の名前があるはずです!」

「ですが、戸籍上の証明がございませんと、万が一の際の責任が持てませんので……」

​事務員の対応はマニュアル通りだった。しかし、そのマニュアルこそが、翔と真由の間に横たわる深い溝だった。

​「翔先生……お母さん、死んじゃうの?」

隣で結菜が、翔のコートの裾を握りしめて泣きじゃくっていた。

翔は結菜を抱きしめることしかできなかった。

(俺は、この子が一番苦しい時に、母親の容態すら聞いてやれない『他人』なのか)

​前妻の戸籍を守るため、という自分のこだわりが、今、目の前の大切な家族を傷つけている。翔は激しい無力感と罪悪感に押しつぶされそうになっていた。

​3

​一方、都内のスタジオでは、蓮と美咲の打ち合わせが続いていた。

連日のすれ違いで千尋との関係が悪化している蓮は、音楽に逃避するように、美咲とのクリエイティブな対話に没頭していた。

​「桜井さんのイラスト、やっぱりすごいよ。俺が言葉にできないノイズとか、孤独感がそのまま形になってる」

蓮がアコースティックギターを弾きながら言う。

美咲はスケッチブックから目を上げ、少し自嘲気味に笑った。

​「そうかもね。私、今、すごく孤独だから。自分の選択が正しいのか分からなくなって、迷子みたいになってる」

「選択って、事実婚のこと?」

「……ええ」

​蓮はギターを置いた。

「俺もさ、彼女に『安心させろ』って責められてる。でもさ、安心って何? 籍を入れたら浮気しないの? 離婚しないの? 結局、みんな『普通』っていう枠にはまって安心したいだけなんだよ」

​美咲は蓮の言葉に、一瞬救われるような気がした。悠斗にも言えない、制度と戦うことの疲弊を、蓮なら理解してくれるような気がしたのだ。

​しかしその時、美咲のスマートフォンに悠斗から着信が入った。

『美咲、すまない。今、取材先の小田島さんのパートナー(翔)から連絡があった。小田島さんが倒れて、病院で大変なことになってるらしい。俺、今から病院に向かう。取材対象としてだけじゃなく、放っておけないんだ』

​悠斗の声は緊迫していた。

「わかった、私も行く!」

​美咲は立ち上がった。

「朝倉さん、ごめんなさい。急用ができて」

「あ、おい……」

​取り残された蓮は、静まり返ったスタジオで一人、ぽつんと佇んでいた。

その時、彼のスマホに千尋からのメッセージが表示された。

​『蓮、荷物をまとめました。しばらく実家に帰ります。お互いのこれからについて、少し距離を置いて考えさせてください』

​部屋の明かりが消えたような錯覚に、蓮は襲われた。

どれだけ自由を叫んでも、自分の音楽を理解してくれる人がいても、帰るべき部屋に千尋がいないという現実が、冷たい恐怖となって彼の胸に突き刺さった。

​4

​深夜の総合病院のロビー。

悠斗と美咲が駆けつけると、そこには疲れ果てた表情で結菜を抱きかかえる翔の姿があった。

​「神崎さん……!」

悠斗が声をかける。翔は力なく顔を上げた。

「高瀬さん……。すみません、こんな時間に。真由の妹さんが今、地方からこちらに向かっているんですが、それまで私は、彼女の病状すら教えてもらえないんです」

​結菜は翔の胸に顔を埋めて眠っている。その小さな背中を見つめながら、美咲は息を呑んだ。

​これが、自分たちが選ぼうとしている道の「最悪のシナリオ」なのだ。

健康な時はいい。愛し合っている時はいい。しかし、社会という冷徹なシステムは、「紙一枚」を持たない者を、決定的な瞬間に「他人」として排除する。

​悠斗は翔の肩に手を置いた。

「神崎さん、まずは結菜ちゃんを横に寝かせましょう。僕たちも一緒に待ちます。妹さんが来るまで、一人にさせません」

​「ありがとう……ございます……」

高校教師として毅然としてきた翔の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。

​ロビーの自動ドアの外では、東京の冷たい雨が降り始めていた。

それぞれの理由で「事実婚」を選んだ3組のカップル。

彼らは今、社会の荒波の中で、自分たちの「絆」の真価を問われる、最も長い夜を迎えていた。

​

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