第13話 本当に運が良かった

 金曜日。

 今日はすっかり雨も上がり、空は見渡す限りの青空だった。朝のきらきらとした陽光が窓枠を通り抜けて1年C組の教室を照らし出し、まるで映画のワンシーンのような美しさを醸し出している。


 私は今日も、7時15分きっかりに登校した。

 昇降口で靴を履き替えていると、傘立てに一本の薄水色の傘が置かれているのが見えた。自分の傘だと認識するのに、何の苦労もいらなかった。

 傘の持ち手には小さな黄色の付箋が貼られており、そこには黒いインクで、几帳面で非常に鋭い筆致の文字が記されていた。


『昨日は傘を貸してくれてありがとう。おかげで電車に間に合い、約束に遅れずに済んだ。――藤原清正』


 私は付箋を剥がし、小さく折りたたんで鞄の中にしまった。

 一つ大きく伸びをする。今朝の空気は、なんだかとても澄んでいて美味しい。


 午前八時。一時間目の授業が始まった。今日も藤原先生による教育実習の授業だ。

 今日の藤原先生は黒のスーツに身を包んでいた。認めたくはないが、彼は本当に黒という色がよく似合う。望月先生と、坂本先生、影山先生の三人も、変わらず教室の後ろで見学している。


「起立!」

 麗華の号令に合わせて、私たちは立ち上がり一礼した。


「着席しなさい」

 藤原先生が口を開いた。

「本日の授業はスピーキングの練習を行います。具体的なテーマは、『Future Ecotourism Ideas(未来のエコツーリズムのアイデア)』です」

 彼は授業用スライドを表示した。

「未来のエコツーリズムのアイデアを、説得力を持たせ、かつ学術性の高いものとして発表するためには、基本的な三段構成と、未来志向の語彙の使用法を熟知している必要があります」


 そう言って、彼はマウスのポインタを動かしながら解説を始めた。

「まずはスピーチの構成について。

 1.Introduction(導入):未来において、なぜこのアイデアが必要なのか、その背景と理由を明確に提示します。『In the near future, as environmental degradation becomes more severe, I propose the concept of...(近い将来、環境悪化がより深刻になる中、私は~という概念を提案します)』や、『Imagine a world where tourism doesn't harm nature, that is why I came up with...(観光が自然を破壊しない世界を想像してください。それが私が~を思いついた理由です)』といった構文が使えるでしょう。

 2.Body(本論):仕組み(How it works)、適用される環境技術(Green technologies applied)、そして環境および地域社会への利益(Benefits for environment and local community)を明記します。

 3.Conclusion(結論):核心となる価値を要約し、行動を喚起します。推奨される構文:『This innovation will not only transform the tourism industry but also preserve our planet for future generations...(この革新は観光産業を変革するだけでなく、未来の世代のために私たちの地球を保護するでしょう……)』」


 藤原先生は次のスライドへ切り替えた。補助語彙のリストだ。

「次に、語彙と専門用語について。皆さんは以下のようなフレーズを組み合わせて使用するべきです。『Zero-emission transport(ゼロエミッション/排出量ゼロの交通機関)』、『Solar-powered lodgings(太陽光発電を利用した宿泊施設)』、『AI-driven waste management(AI主導の廃棄物管理システム)』、『Biodegradable materials(生分解性素材)』、そして『Carbon-neutral footprint(カーボンニュートラルな足跡)』」


 理論の解説が終わった頃には、およそ15分が経過していた。藤原先生はクラス全体に向き直った。

「では、実践のセクションに入ります。最初のエクササイズは、『ペアワーク(Pair Dialogue)』です」

 その言葉を聞いて、クラス中がざわつき始めた。


「クラスの中から無作為に二名ずつ、計三組を指名します。指名された二人は教壇に上がり、二人の投資家、あるいは二人の観光専門家という役になりきって、自らが考案した未来のユニークなエコツーリズムのアイデアについて対話し、議論してもらいます。準備時間はきっかり5分です」


 藤原先生がノートパソコンのタイマーを起動し、5分間のカウントダウンが始まった。

 私は大急ぎで自分のアイデアをひねり出し始めた。

 心の中で自分自身に言い聞かせる。『どうせ今日も藤原先生は私を標的にするに決まってる。これまでの授業みたいに、絶対に15番の私を呼ぶはずだ』。


 私は対話における相槌や応答のフレーズを思い返した。「That sounds like a revolutionary idea, but how do you deal with...?(それは革命的なアイデアに聞こえますが、~についてはどう対処しますか?)」や、「I completely agree, and to build on that concept, we could also...(完全に同意します。そしてその概念をさらに発展させるために、私たちには~も可能です……)」などだ。


 私は対話における相槌や応答のフレーズを思い返した。「That sounds like a revolutionary idea, but how do you deal with...?(それは革命的なアイデアに聞こえますが、~についてはどう対処しますか?)」や、「I completely agree, and to build on that concept, we could also...(完全に同意します。そしてその概念をさらに発展させるために、私たちには~も可能です……)」などだ。


「5分の準備時間が終了しました」

 教室内はシンと静まり返った。私はペンを強く握りしめ、藤原先生に名前を呼ばれる覚悟を決めた。


「第一組。18番と30番、教壇へ」


 ――えっ?

 私はパチパチと瞬きをした。少し戸惑いを感じる。私じゃないの?


 荒谷牙(あらや きば)と天海結月(あまみ ゆづき)の二人が教壇へ上がった。クラスメイトと三人の見学者たちの視線を浴びながら、二人は向かい合って立つ。

 牙から口火を切った。

「Hey Yuzuki, have you thought about the future of ecotourism in 2050? I am planning to design floating resort pods in the ocean that run entirely on wave energy.」

(やあ結月、2050年のエコツーリズムの未来について考えたことはある? 僕は波力エネルギーだけで完全に稼働する、海上の浮遊型リゾート施設を設計しようと計画しているんだ)


 結月が応答する。

「That sounds fascinating, Kiba! But how will these floating pods handle sewage and waste without polluting the marine ecosystem?」

(それは魅力的ね、牙! でも、その浮遊施設は海洋生態系を汚染することなく、どのように下水や廃棄物を処理するの?)


 牙が解説する。

「Great question! Each pod will be equipped with an advanced bio-filtration system that converts liquid waste into clean water and organic fertilizer for underwater kelp farms.」

(素晴らしい質問だ! 各施設には高度なバイオろ過システムが装備されており、液体廃棄物をきれいな水と、海中の昆布農場のための有機肥料に変換する仕組みになっているんだ)


 結月が頷く。

「I see! To complement your idea, we could also use zero-emission electric boats to transport tourists to these pods, ensuring a completely carbon-neutral vacation.」

(なるほど! あなたのアイデアを補完するために、観光客をその施設に運ぶためのゼロエミッションの電気ボートを使用することもできるわね。これで完全なカーボンニュートラルな休暇が保証されるわ)


 藤原先生が講評する。

「非常に自然な対話です。専門用語も適切に使用されており、高く評価できます。二人とも席に戻りなさい」

 牙と結月はクラスの拍手の中、席に戻った。


「第二組。29番と26番」


 私は再びビクッとしたが、今回も私ではなかった。

 高橋夏生(たかはし なつお)と星川きらら(ほしかわ きらら)が前に出る。

 夏生が声を発した。


「Kirara, my company is developing solar-powered safari vehicles for wildlife tours in national parks. What do you think?」

(きらら、僕の会社は国立公園での野生動物ツアー向けに、太陽光発電で動くサファリカーを開発しているんだ。どう思う?)


 きららが微笑む。

「Oh, Natsuo, that is a cool concept! But traditional solar panels might not generate enough energy on cloudy days in dense forests.」

(あら夏生、それは素敵なコンセプトね! でも、従来のソーラーパネルでは、鬱蒼とした森の中の曇りの日には十分なエネルギーを発電できないかもしれないわ)


 夏生が答える。

「We solved that by using ultra-flexible, high-efficiency solar films wrapped around the entire body of the vehicle, along with kinetic energy recovery systems when driving downhill.」

(車体全体を覆う超柔軟で高効率なソーラーフィルムと、下り坂を走行する際の運動エネルギー回生システムを併用することで、その問題は解決したよ)


 きららが頷く。

「Impressive! This will surely eliminate noise pollution and keep the wild animals undisturbed.」

(感動的ね! これなら確実に騒音公害を排除して、野生動物を邪魔せずに済むわ)


 藤原先生の講評が入る。

「良いアイデアです。ただし、星川は『traditional』と『efficient』の発音に注意すること。席に戻りなさい」


 続いて、藤原先生は第三組を指名した。

「第三組。44番と4番」


 篠原椿と白鳥瑠璃(しらとり るり)が前に出て、『Virtual Reality Nature Tours(VRネイチャーツアー)』のモデルについて対話を行った。これは遠方へ移動できない観光客向けのもので、脆弱な自然保護区に及ぼす実際のカーボンフットプリントを削減するという内容だった。

 第三組が席に戻り、第一のエクササイズが終了した。


 私はさっきからずっと不思議で仕方なかった。どうして今日の藤原先生は、これまでの授業のように私を当てないのだろう?

 ……あ! そういうことか! 次のエクササイズが絶対に難しいから、そこで私を指名する腹積もりなんだ!


「では、第二のエクササイズに移行します」

 藤原先生がスライドを切り替える。画面には『Individual Presentation: Pitching Your Eco-Idea(個人プレゼンテーション:自分のエコ・アイデアを売り込む)』という文字が現れた。

「このエクササイズでは、各生徒が教壇に立ち、自分が考案した未来のエコツーリズムについて完全なスピーチを行ってもらいます。なお、この課題については準備時間を与えません。無作為に指名された者は、即座に前に出て発表すること」


 クラス中から悲鳴のような声が上がった。準備時間がないということは、教壇の上で完全なアドリブを強いられるということだ!


 ほら見なさい! 私の予想通りじゃないか! これこそ間違いなく藤原先生が私に用意した『特別待遇』だ! 彼は事前準備なしの私の即興力を試そうとしているんだ! 私はそういうのが死ぬほど苦手なのに。絶対クラスの笑い者にされるに決まってる!

 この悪魔!


「9番、前に出て発表しなさい」

 藤原先生が言った。


 私はポカンとした。……まだ私じゃないの?

 拓川琥珀(たくがわ こはく)が自信満々に教壇へ上がった。あの顔つきからして、間違いなく事前に頭の中で原稿を用意していたのだろう。彼は教壇の中央に立ち、堂々と発表を始めた。


「Good morning everyone. Today, I would like to introduce my vision for future ecotourism: Floating Eco-Cities dedicated to Coral Restoration. In the near future, rising sea levels and ocean warming will threaten marine life. My project involves constructing self-sustaining floating communities made from recycled bio-plastics. These cities will serve as research stations and educational hubs for eco-tourists. Visitors can participate directly in coral grafting and marine clean-up activities. Power will be generated through wave and tidal energy, making the entire complex carbon-negative. By combining luxury tourism with active conservation, we can save our oceans while educating the public. Thank you for listening.」

(皆さん、おはようございます。本日は、未来のエコツーリズムに対する私のビジョンをご紹介したいと思います。それは『サンゴ礁の回復に特化した浮遊型エコシティ』です。近い将来、海面上昇と海洋温暖化が海洋生物を脅かすでしょう。私のプロジェクトは、リサイクルされたバイオプラスチックで作られた、自給自足の浮遊コミュニティを建設することです。これらの都市は、エコツーリストのための研究ステーションおよび教育ハブとして機能します。訪問者は、サンゴの接ぎ木や海洋清掃活動に直接参加できます。電力は波力と潮力エネルギーによって生成され、施設全体を『カーボンネガティブ』にします。ラグジュアリーな観光と積極的な自然保護活動を組み合わせることで、私たちは大衆を教育しながら海を救うことができるのです。ご静聴ありがとうございました)


 藤原先生は感心したように頷いた。

「素晴らしいプレゼンテーションです。『carbon-negative(カーボンネガティブ)』という概念が非常に適切に適用されており、堂々とした振る舞いも良かった。席に戻りなさい」

 琥珀は満面の笑みを浮かべた。


「よろしい、次の発表者は……」


 今度こそ……今度こそ絶対に私だ!

「24番」


 はあ!?

 私は思わず教室の中で叫びそうになった。また別の人!?

 今回教壇に上がったのは冬月真白(ふゆつき ましろ)で、彼は『Zero-Waste Alpine Treehouse Resorts(ゼロ・ウェイストの高山ツリーハウス・リゾート)』についてのスピーチを始めた。地元の素材を使用することや、生ゴミを森の肥料として堆肥化すること、そして観光客に植林ハイキングツアーへの参加を義務付けることなどについて語った。


 認めざるを得ないが、真白のスピーチは見事なもので、発音もまるでネイティブのようだった。

 それにしても、今日の藤原先生は本当におかしい。普段なら何でもかんでも私を指名し、二度も三度も立たせ、私の発言の隅から隅まで粗探しをして訂正してくるのに。今日の授業では、ただの一度も私を呼ばなかったのだ。


「大変よくできています。ありがとう、席に戻りなさい」

 真白がスピーチを終えると、藤原先生が講評した。


 ジリリリリ……!

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。


「本日の授業はここまでとします。皆さん、お疲れ様でした」

 藤原先生は一礼し、教卓の片付けを始めた。


 私は即座に机に突っ伏し、長いため息を吐き出した。


 今日……私、本当に運が良かった!

 指名されなかった! 意地悪な質問もされなかった! クラス全員の前で批判されることもなかったのだから!

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