第六話<鏡合わせ>
「約束の報酬をくれてやるぞ」
勝ち誇った笑いをあからさまに浮かべ、ゾドグが
上役が我関せずとばかりに平然と書類をめくり、なんでもないように、
「御家は断絶となります」
ゼアは
朝まで探し続けたが結局見つからず、
翌朝、使者が訪れ、上役のもとに赴くよう命じられた。長く待たされた後、出し抜けに口上を切り出された。
「されど、そのようなお話ではなかったはずです」
「さる貴族とは言ったが、誰とも、どちらとも言っておらんぞ。
着いた両の指先が震える。
「王の護衛に失敗した
「ああ、それと貴様の与党にもおこぼれをやる」
視界は床だけで見えはしないのに、虫をいたぶるような視線を感じる。
「侍従長は
晩秋の気配は
空気は冷えているのに、汗が一筋流れる。
通達は終わった、ゼアが承知の
「統治権の
そのゾドグに答えるように、上役が薄い書類の隅を整えながらつぶやいた。
「太陽は毎日昇るが、主上が姿を現すことはもうあるまい」
「王など飾りだ、飾りはありさえすればいい」
ゾドグがせせら笑いを
「あの女の顔が見たいぞ、けち野郎」
その時ゼアにある感情が芽生えた。
面を上げて直視した。
その
「これは陰謀だとでも思っているのだろう。違うな、貴様が招いたことだ。あの時この俺に
もはや用はないとばかりに立ち上がると、
再び、下を向いた。
視線が、動かなかった。
エリンが泣いている。
初めて顔をあわせて、肩を並べて棒を振っていた時から、どれほど苦しい
二人に戻っただけだというのに、邸は
戻った後、仕置きを伝えた。
エリンは
それも当然に思えた。
遅かれ早かれこの邸も去らなければならないだろうし、名誉も身分も財産も失った。
今までの
竜胆が枯れていた。
「悲しんでいるのではありません」
涙を流しながらも、月光が差し込み、その細面を照らし出すと、黒髪のエリンの
「わたし達の時間が否定されて
ゼアは何も言えなかった。だが、視線をそらさなかった。エリンも
沈黙し、枯死した竜胆を見て、握りしめられた
習いからどちらともなく、食膳の準備を始めた。
二人でほそぼそと食事をした後、小さく言葉を交わした。
別れて
扉が静かに閉ざされた。
押込が始まった。
これからを過ごす室をしばし見まわした。
ここは普段閉め切っていて、かつて世情が不穏であった頃、護衛や
七日間ここにいなければならなかった。気持ちがふさいだ。
視野の端で
居室の壁を眼前にして座った。その向こうからは浅い呼吸の気配を感じる。だが声をかけるのは許されていなかった。
翌朝、目を開けると埃が舞っていた。そしてその奥では、昨夜の蜘蛛が巣をつくろっていた。
起き出したものの、今がいつなのか判別しがたかった。昼夜が
かすかな物音と共に、そっと扉の前に置かれる膳だけが、緩慢な時間の経過を告げていた。食欲はなく、食べても
気分が悪かった。
取り留めなく後悔や、恥の断片が、引っ切りなしに苦もなく浮かんできた。自責の念を抑えることができなかった。眠りに落ちる前のように、内に沈んでいく感覚があった。
物音一つしない無音に、耳鳴りがした。静寂が聞こえた。
鼓動がうるさい。
誰かの声が聞きたかった。
誰かに話しかけたかった。
本当に孤独を感じる時は、自分自身の存在すら耐えがたく、持て余していた。
一人で
習い性が心を
だが映す者のない鏡は、在るだけだった。
己を信じられなくなっていく。
蜘蛛の巣がいつの間にかなくなっていた。
木剣の刻みをなでようとして、指が
そうした中で、それは最初、故郷の
声だとは判らなかった。
しかし音に
「……最近はことに物騒で、あなたと毎年行きました武会の見物も、できそうにありません」
隣家の老婦人が誰かと話していた、だが何か違和感があった。
「そこで買役の禁令が公布されると聞きましたが、取りやめになるそうですよ」
相手の声が全く聞こえなかった。
「もちろんです、あなたが生きていらしたら、あんな
どうやら亡くなった御主人に話しかけているらしかった。
庭の鈴虫が、透き通った高い音で、涼しげに鳴くのが、うるさく聞こえる。
「エリン、窓をしめてくれ」
──ご自分でなさいませ──
それが始まりだった。
隣室は
口をついた言葉の返答は心中の、半生を共にしたゆえの半身から出てきた。
意外にいささかも驚きはなかった。今も存在を感じていた。
老婦人のように死に別れても、あるいは生き別れたとしても、エリンを失うと言うゼアの最も恐れていることは、あり得ないのだった。
無駄をそいで行くうちに、外にまとっていた物が落ち、内に残ったものと、自然に重なっていった。
指先に木剣の文字の感触がよみがえる。
独りでは本来起こり得ない鏡合わせが、ゼアと内心のエリンの間で起こった。
──武会の決勝に進み、貴族にならなければ、おまえと結婚できなかった──
──ゾドグとの婚約を破棄したわたしを、あなたは救おうとした──
古きより
──優勝すれば近衛に任役されてしまう。御家の蔵役には就けなかった──
──わたしは、あなたに悔いを残して欲しくありませんでした──
──だが
──わたしはあなたと結婚したのを喜び、あなたがわたしと結婚したのを悲しみました──
ゼアの目は開いた。
想いが待っていた。
寝具から起床して面壁した。
一人、
思い悩んでいたのが
苦痛が溶け、安らぎをおぼえた。そして、それは自分だけではないと、理屈ではなく解っていた。
そっと懐の上にふれた。
エリンはいる。
すると壁の向こうから息をのむ音がした。
ゼアもいるのだった。
たとえ全てを失っても、誰もそれを奪うことはできなかった。
──ちょっとそこにお座りになって──
──うん──
──家に財産はもう何もありません──
──うん──
──御家はなくなります──
──うん──
──小遣いはもういりませんね──
──少しは──
──黙らっしゃい──
──はい──
解ったのはいつだろう。
しかし気性がゆるさなかった。
よしんばそうしたとしてもあいつは騙せない。
以前、枕を並べて寝ている時は、手を伸ばせば届くのに、心が離れていたから、ふれることはできなかった。しかし今は、二人の間には壁があり、ふれることはできないが、心は一つだった。芽生え、育っていた人間らしい感情が、いつしか確かな形となっていた。たとえ鏡に不要な
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