第31話 欠けた金星

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LC-321-H/arieSta

2047.06.25-Tue 19:10

Location : 豊島区 東京都

MoonAge : 2.0

Sectors : 2/88 fired

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 その夜、ハルがめずらしく自分から誘った。


 グループチャットに短い文面が流れたのは、夕方の五時過ぎだった。


ハル : 今夜、日没後の空に黄道のが見える。西に二日月と金星、東から土星。望遠鏡なら天王星も入る。見るなら今夜ロクマルに集合

ユキ : 黄道って、線が引いてあるわけじゃないよね?

ハル : 今夜は引いてあるみたいに見える

ダイチ: 行く

タキ : 今夜は機構の定例が長引きそうです。間に合えば


 ユキは返信を打ちながら、少し笑った。


 ハルが「見るか」と誘うのは珍しい。ハルはいつも、誰かが空を見上げるのを、珈琲を持って横で見ている側の人だった。その人が、今夜は自分から空を指さしている。


 ロクマルの屋上に着いたのは、日が沈んだばかりだった。


 西の空が、まだオレンジの名残を残していた。その手前の、暗くなりかけた空に、点がいくつか光っていた。


「あれ」とユキは指さした。


「金星」とハルが言った。


「一番明るいやつ。宵の明星だ。その右下の低いところ、針みたいに細いのが今夜の月。月齢二で、一時間ちょっとで沈む」


 ダイチが望遠鏡を組み立てていた。三脚を開いて、鏡筒を載せて、ファインダーを覗く。手の動きに迷いがない。


 ダイチは覗いたまま報告した。


「金星、視直径三十四秒。三日月みたいに欠けてる。八月の内合に向かってる」


「欠けてるの?」とユキ。


「金星も月みたいに満ち欠けするよ。地球より内側を回ってるから」


 空が暗くなるにつれて、点の光が強くなっていった。


 ハルが順番に指さしていく。


「西に金星。さっきの月は、もう沈んだ。振り返って東の低いところ、あれが土星。──今夜、肉眼で見えるのはこれで全部だ」


 ユキは空を見上げて、指で数えた。金星、土星。沈んだ月を足して、三つ。


「……少なっ。壁がなくても、惑星ってこんなもんなの?」


「今夜はそういう並びなだけ。水星と火星は太陽に近すぎるし、木星は今、明け方の空だ」とハル。


「その代わり、肉眼で見えないやつを見せてやる。ダイチ、そっち入れられるか」


「入れてる」とダイチ。


 鏡筒の向きを変えながら。


「天王星、導入した。覗いてみろ」


 ユキは接眼レンズを覗いた。青緑色の、小さな円。星みたいに点じゃなくて、ちゃんと面積を持った円。


「……まるい。青い」


「天王星。直径地球の四倍。ここから二十八億キロ」とダイチ。


「二十八億」


 数字が遠すぎて、うまく実感が湧かなかった。でも今、その光がこの目に届いている。


 ハルが空の全体を見渡した。


 西から東へ、低い弧。


 沈んだ月の位置から、金星、望遠鏡の中の天王星、そして土星へ。


 見えない線の上に、全部が乗っている。


「黄道だ。太陽の通り道。月も惑星も、ほぼ同じ平面を回ってるから、空でも一本の線の上に並ぶ。今夜はその線が、よく見える」


「線、見えた気がする」


「気じゃなくて、あるよ。それぞれ別の距離を、別の速さで回ってるのに、地球から見ると一本の線に乗る。さっきダイチが見せた、欠けた金星は──」


 ハルが少し考えた。


「四百年前、ガリレオが同じ形を望遠鏡で見た。金星が月みたいに満ち欠けするのを確かめて、金星が太陽のまわりを回ってる証拠になった。今夜ユキが見たのと、同じ形だよ」


「四百年」とユキは繰り返した。


 足元に、池袋の夜景が広がっていた。


 ネオン。車のライト。人の気配。その上の空に、金星と土星。それから望遠鏡の中に、青い円がひとつ。


 ユキは思った。


 星は、ない。


 あの暗黒星雲の壁の向こうで、何百億もの星が燃えてるけど、ここからは一つも見えない。物心ついてからずっと見えない。


 でも惑星は見える。


 惑星は、壁の内側にあるから。太陽系の中にいるから。壁の向こうの星とは違って、こっち側にいる。だから光が届く。


 星のない空に、惑星だけが賑やかに並んでいる。


 なんだか、皮肉みたいだった。遠くの星は見えないのに、近くの仲間は見える。


「ねえ」とユキは言った。


「惑星って、ずっと見えてたんだよね。壁ができても」


「うん」とハル。


「壁は一光年先で、惑星は、一番遠い海王星でも壁の二千分の一ほどの距離しかない。壁の遥か内側を回ってる。だから壁ができても、惑星はずっと見えてたんだよ」


「星だけ取られて、惑星は残ったんだ」


「そうだね」


 ハルは珈琲の缶を持ったまま、空を見上げていた。


「子どもの頃、惑星も星の一種だと思ってた。でも違う。星は自分で燃えてる。惑星は、太陽の光を反射してるだけだ。自分じゃ光らない」


「石みたいだね」とユキは言った。


 ハルがユキを見た。


「うちらが探してる石。あれも自分じゃ光らない。光を蓄積してから光る。惑星も、太陽の光を反射して光ってる。──ちょっと似てる」


ハルは少し黙ってから、小さく頷いた。


「……まあ、似てるな。考えたことなかった」


 金星が、ゆっくりと西に傾いていった。やがて夜景のビルの向こうに隠れて、この屋上からは追えなくなった。


「そういえば」とハルが、思い出したように言った。


「夏に、彗星が近日点を通る」


「彗星?」とユキ。


「フィンレー彗星。周期六年半の、地味なやつだ」


「フィンレー」とユキ。


「有名なやつ?」


「ぜんぜん」とハル。


「普段は肉眼じゃ見えない。望遠鏡がいる。でも、六年半ごとにちゃんと戻ってくる。律儀なやつだよ」


「戻ってくるんだ」とユキ。


「彗星って、一回来たら終わりだと思ってた」


「そういうのもいる」とハル。


「太陽の近くを一度だけ通って、そのまま外へ出ていくやつ。二度と戻らない」


「二度と」


「フィンレーは違う。地味な分、何度でも来る。そういう客だよ」


「しかも今年は条件がいい。地球に近いところを通る。とはいえ、望遠鏡は要る」


「いつ見えるの」


「七月の下旬がピークかな」とハル。


「夏になったら、東の空。日の出前」


「見たい」とユキは即答した。


 ダイチが望遠鏡から顔を上げた。


「見る」


「気が早いな。まだ一ヶ月ある」とハルが少し笑った。


「忘れないようにする」とユキ。


「七月。フィンレー彗星。望遠鏡」


 ユキは空を見上げた。


 今は惑星だけ。


 でも夏には、彗星が来る。


 星はないけど、見える知識が、また一つ増えた。


 タキから連絡が来たのは、夜の九時前だった。


タキ: 定例、終わりません。間に合いませんでした。何が見えましたか

ユキ: 金星と土星。あと望遠鏡で天王星も見た。青かった

タキ: いいですね。見たかった

ユキ: 七月に彗星来るって。今度はみんなで見よ

タキ: はい。ぜひ


 ユキはスマホをポケットに戻した。


「タキ、悔しがってた」とユキ。


「だろうな」とダイチ。


 望遠鏡を畳み始めながら。


「七月は来させる」


 土星が、東の空で少し高くなった。


「そろそろ帰るか」とハル。


「明日もケフェウス座の作業がある」


「うん」とユキ。


 三人で屋上を降りた。


 エレベーターの中で、ユキはもう一度、頭の中で数えた。金星、土星、それから望遠鏡の中の天王星。今夜見えたのは三つ。残りの四つは、また別の夜に。


 それから、七月の彗星を思った。


 夏が、少し楽しみになった。

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