第九話 もう一人の七篠
五月の終わり。
興部高校野球部は、春季大会を終え、夏の大会へ向けて練習を重ねていた。
部員十五人。
一人ひとりが欠かせない存在だった。
球太郎も一年生ながら、紅白戦では投手として登板する機会が増えていた。
左で三人を抑えたかと思えば、次の回には右で投げる。
まだ公式戦では認められていない戦い方だったが、北見監督は一切止めなかった。
「やってみろ。」
その一言だけだった。
球太郎は、その期待に応えようと必死だった。
ある日の放課後。
職員室から北見監督が部室へやって来た。
手には一枚の書類を持っている。
「みんな、少し集まれ。」
部員たちは円になった。
「来週、一人転校生が入る。」
「えっ?」
十五人しかいない野球部に、新しい仲間が加わる。
それだけでも珍しいことだった。
「野球部に入る予定だ。」
「やった!」
「これで十六人!」
部員たちは素直に喜んだ。
「どんな人ですか?」
誰かが尋ねると、北見監督は少し笑った。
「変わった選手らしい。」
球太郎は、その言葉に少しだけ反応した。
(変わった選手……。)
どこか、自分と重なる響きだった。
その夜。
北海道の別の町。
一人の少年が、静かに段ボールへ荷物を詰めていた。
グローブが二つ。
右用と左用。
バットも二本。
左右両打席用に、少しだけ重さが違う。
少年は一枚の写真を手に取る。
まだ幼い頃の写真だった。
そこには赤ん坊が二人、並んで眠っている。
しかし、写真の右半分は破れていた。
残っているのは、自分だけ。
もう一人の赤ん坊の姿はない。
少年は小さくつぶやく。
「兄ちゃん……。」
その言葉には、不思議と懐かしさがあった。
会った記憶はない。
それでも、どこかで生きていると信じていた。
彼の名は――
七篠球次郎。
幼い頃、ある事情で球太郎と離れ離れになった双子の弟だった。
彼を育てた養父母もまた、多くを語らなかった。
「事情がある。」
「いつか話す。」
その言葉だけで十数年が過ぎた。
球次郎もまた、兄と同じように答えを知らずに育った。
「なんで両方で投げるの?」
小学生の頃、何度も聞かれた。
球次郎は笑って答えた。
「なんとなく。」
本当は違う。
右でも左でも投げると、不思議と心が落ち着く。
左右両方の打席に立つと、「これが自分だ」と感じる。
理由は説明できなかった。
誰に教わったわけでもない。
気がつけば、そうしていた。
周囲には笑われた。
「変わってる。」
「どっちかにしろ。」
それでもやめなかった。
兄の球太郎と同じように。
血のにじむような努力を重ねながら。
数日後。
興部高校の校門の前に、一台の小さなトラックが止まる。
荷台から降りてきた一人の少年は、校舎を見上げて静かに息を吐いた。
「今日から、ここか。」
その胸ポケットには、新しい校章。
手には、左右二つのグローブが入ったバッグ。
運命の歯車が、静かに動き始める。
だが球太郎は、まだ知らない。
その転校生が、自分と同じ名字を持ち、自分と同じ夢を追い続けてきた、たった一人の双子の弟であることを。
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