マジレスである。
牛や豚のように、屠殺される恐怖という悲鳴。その悲鳴は、次の時代にとっての重要な観測データだと思っています。
技術に仕事を奪われるという話を聞くと、人は自分が牧場から屠殺場へ送られる家畜になったような恐怖を想像します。
これまで役に立っていた能力が、ある日を境に不要とされ、慣れ親しんだ柵の外へ追い出され、昨日まで価値があったものに、値段がつかなくなるという恐怖。
でも、技術というのは一直線には進まない。
計算機が普及すれば、速く計算する人より、何を計算すべきか決める人が上流となる。
自動化が進めば、同じ作業を正確に繰り返す能力から、例外を判断する品質へと価値が分散される。
生成技術が低コストに文章や絵を大量に作れば、何を、誰へ届け、どんな結果を残しているのかが問われ、評価する側に重みが移る。
技術は社会を一方的に破壊して終わらない。
新しい技術が既存の仕事や制度を揺さぶり、その痛みが社会的な要求となる。
人間らしい働き方、再教育、責任の所在、機械との役割分担。こうした要求が、次の制度と技術を生む刺激になる。
つまり、追い出された者の悲鳴さえ、次の時代にとっては重要な観測データとして、今も昔も扱われてきた、という経緯がある。
もちろん、未来の発展を語るだけで、柵から追われる者の恐怖は消えない。社会全体が先へ進むことと、その途中で一人の生活が壊れることは、それまた別の問題。
だから必要なのは、「技術の進歩だから仕方がない」と屠殺を正当化することではない。
屠殺されるという恐怖を直視し、それを次の社会が解決すべき需要へ変えること。
自分の価値を、現在の作業名だけに結びつけてしまえば、その作業が消えた瞬間に自分まで不要になったように感じる。
けれど、仕事一つとっても、単一の技術の名で言えるほど、単純ではない。
技術が古い価値を食べるたび、また別の能力が別の形で相対的に価値を持ち始める。
屠殺の恐怖を乗り越える。
これは、痛みを感じなくなることではなく、昨日までの自分を守るだけの戦いをやめ、次に何が必要とされるのかを見定めること。
柵が壊れたとき、そこを世界の終わりと見るか、次の社会へ続く境界と見るか。
技術は人間を追い立てる。
追い立てられた人間は、新しい社会的ニーズを生む。
そのニーズが、次の技術に方向を与える。
私たちは屠殺場へ運ばれるだけの存在ではない。
恐怖を要求へ変え、次の技術が進む方向そのものを選び直せる存在なのだと。