第五話『封印の波紋』

四日目の夜、蓮は眠らなかった。


 心岳の言い付け通り、彼は横たわって目を閉じ、一晩中「空の呼吸」を続けた。熱は体内をゆったりと往復した――まるで潮の満ち引きのように。しかし彼はそれを押し返すことも、力づくで掴み取ることもせず、ただ岸辺に佇んで水面の揺らぎを見守るだけに留めた。だが、障子を通り抜けた月光が左頬に落ちた瞬間、その傷痕がまるで火をつけられたかのように激しく疼き出した――爪で掻きむしりたくなるほどの痒みが襲う。


 彼は耐えた。手を伸ばすことはしなかった。ただ呼吸をいっそう深く、穏やかに整えた。百回ほど息を数えた頃、痒みは徐々に鎮まり、穴へと這い戻る蛇のように退いていった。


 だが、その痒みが引き切った刹那、彼の意識は見知らぬ異界へと引きずり込まれた――

 夢ではなかった。

 あたり一面に広がるのは深紫の虚空。足元に大地はなく、無数の折れた剣が空中に突き刺さっていた。斜めに、歪みに、その半身を不可視の「地表」に埋め込み、果てしない剣の墓標を形作っている。どの剣も禍々しい赤錆に覆われ、刀身にはひびが走り、内側から弾け飛んだかのようだった。風は吹いているが音はなく、地鳴りのような低い呻きだけが満ちている――まるで天全体が一枚の巨大な鼓膜と化しているかのように。


 蓮は己の手を見下ろした。自分が依然として「ここ」に存在しているという確信があった。足の裏からは、氷面を踏みしめているような冷たく硬質な感触が伝わってくる。二歩ほど踏み出してみた。足元の折れ剣が軋み、蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていく。

「また来たか」

 声が四方八方から押し寄せてきた。深山に木霊する幾重ものこだまのように。蓮は顔を上げた。剣の墓場の中央に、他を排してそびえ立つ一振りの銀白色の残剣があった。刀身は斜めに半ばから折れ、折れ口からは銀灰色の細い糸が垂れている――いまだ乾かぬ血のように。そしてその声は、ほかでもないその折れた剣から発せられていた。


「……これが羅刹か」蓮は退かなかった。「お前は、そんな姿をしているのか?」

 折れた剣が微かに震えた。嘲笑っているかのようだった。「『そんな姿』だと? お前が見ているのは、お前の意識が私に結ばせた像に過ぎん。私には目も手足も要らぬ。私はただ――」

 折れ口から垂れる銀糸が突然一筋に集まり、揺らめく人型の光の塊を形作った。顔もなければ衣の襞もなく、ただ一片の銀白色の光柱に過ぎない。それが蓮に向かってわずかに傾いた。見下ろすように。


「――私は、お前の左頬に封じられた歴史の一片に過ぎん」

 蓮は拳を強く握りしめた。「昨日お前が口にした言葉は、俺の警戒を解き、その力を侵食させるための罠だったのか?」

 光の霧は直接答えなかった。「頭」にあたる部分をわずかに傾け、銀白の塊が片寄り流れた。彼を値踏みするように。「警戒心が強いのは結構。だが、もし私がお前を害そうと思えば、そのような言葉など弄さぬ。黙したまま、お前が私の力に血管を破裂させるのを待ち、高笑いするだけだ」

「ならば、何が望みだ?」

「お前自身に、己の真姿を見極めてほしいのだ」光の霧はぼんやりとした手を伸ばし、蓮の足元に眠る無数の折れ剣を指し示した。「見えるか? これらはみな、かつて『私を封じよう』と挑んだ者たちの残骸だ。いずれも極致に至った手練れであり、完璧な剣魂と揺るぎない意志を備えていた。彼らは私を討てば天下が平らかになると信じて疑わなかった。だが、結果はどうだ?」

 銀光が一閃した。足元の折れ剣が一斉に震え上がり、耳をつんざく悲鳴を上げた。千人もの人間が同時に絶命の叫びを上げるかのように。


「彼らはことごとく、私に剣魂を打ち砕かれた。そしてお前は――」光の霧が蓮へと向き直った。「お前には剣魂がない。砕くべきものすら存在しないのだ。お前はこの千年で、私が内部から切り崩せなかった唯一の『器』だ。だがそれは同時に、私がお前を強くすることもできぬということを意味する。私があたえられるのは『門』のみ。お前自身がその足で歩むのだ」

 蓮は唇を噛み締めた。「なぜ俺がお前を信じられる?」

「信じる必要などない」光の霧の声が、にわかに低く沈んだ。深い霧が谷底へ澱んでいくように。「お前はただ一つだけ悟ればよい――私は『封印』だ。だが封印には三つの層がある」


 光の霧が半歩退き、ぼんやりとした手が空中に一筋の軌跡を描いた。銀糸が三つの同心円を紡ぎ出す。波紋が波紋を重ねるように。「最も外なる層は、私が抑え込まれる中で漏れ出た気配だ。お前が昨日振るった銀光がそれにあたる。ここが『安全領域』だ。お前の身体の限界を超えぬ限り、使おうとも意志が侵されることはない」


「第二の層は、『封印の本体』だ」光の霧の手が中央の円環を指した。「無剣剣聖が己の剣魂を融解させて鋳造した結界である。お前がこれに触れれば、千年に及ぶ闘乱の記憶――苦痛、憤怒、絶望に身を苛まれることになろう。だが、自ら引き裂こうとしなければ、破れることはない」


「そして第三の層――」光の霧の手が止まった。最も内側の円環は描かれぬまま、銀糸が突如として途切れ、無数の光粒となって散散に霧散した。

「それこそが私だ」光の霧が言った。「私という存在の本体だ。お前が第三の層に触れれば、己の手で牢獄の扉を押し開けるに等しい。私は解き放たれ、お前の身体の隅々までを満たすだろう。その時、お前はもはや『黒鉄蓮』ではなくなる」

 蓮は光の霧をじっと見つめた。「もし永遠に第三の層に触れなければどうなる? 最外層の力だけを使い続けたとしたら?」


「永久に枯れ枝を折り、小石を砕いて終わるだけだ」光の霧の声に、微かな嘲りが混じった。「あの鉄虎の嘲笑に、銀の針一本で抗うつもりか?」

 蓮は応えなかった。だが彼は、羅刹の言わんとすることを理解していた――最外層の銀光は鋭利ではあるが、あまりに脆弱だ。今朝、鉄片に傷をつけた時、すでにその限界を痛感していた。刻まれた傷は米粒ほどにも満たず、真の強敵に立ち向かうには到底足りない。


「……お前が言いたいのは、第二の層に触れろということか?」蓮の声が沈んだ。


「触れろとは言っておらん」光の霧の声が極限まで低くなった。消えゆく蝋燭の最後の囁きのように。「私は『重ね合わせろ』と言ったのだ。お前の指先を、第二の層の内壁にそっと重ねよ。引き裂くな、押し込むな、ただ寄せるのだ。さすれば無剣剣聖が残した『型』を感じ取ることができる――技の型、力の型、闘いの型を。お前に剣魂がなくとも、その型をなぞることはできる。一度目にして、刻み込み、己の虚空において再現してみせるのだ」


 蓮は長い沈黙に沈んだ。


 深紫の剣の墓場が足元でかすかに揺れ、再び風が吹き始めた。鉄錆と灰の臭いを孕んで。銀白色の光の霧は折れた剣の上で徐々に萎み、細い糸となって垂れ下がり、やがて消え失せた。引き潮のように。


「明日の刻限、俺は第二の層に近づいてみる」蓮が口を開いた。「だが、お前に唆されたからではない。お前の言う通りだ――最外層だけでは、俺は『光る技を弄ぶ子供』のままだ。俺がこの道を歩むと決めたのは、そんなものの利くためではない」

 光の霧の最後の一筋が立ち消える直前、かすかな声が残された――

「……お前は、私の知る中で最も頑なな『器』だ。面白い」

 蓮はハッと目を覚ました。


 彼は相変わらず、粗末な竹の床に横たわっていた。障子を差す月光は壁際へと移ろい、朝明の冷気が床板の隙間から忍び込んでいる。左頬の熱は失われ、掌の銀紋も影を潜めていた。しかし、たった一つだけ変化があった――

 彼の左手の人差し指の先端に、ごく淡い銀灰色の細い環が浮かび上がっていた。重さのない指輪のように皮膚の下に刻まれ、冷たく、静かに、確かな存在感を放っている。


 彼はその銀の環をしばし見つめたが、触れようとはしなかった。身体を起こし、窓を押し開ける。東の山嶺は濃藍から浅い金紅色へと染まり始めていた。冬の朝の澄んだ空気を深く吸い込むと、己の心拍が穏やかに整い、息が長く深く巡るのを感じた。

「第二の層……一目だけ、確かめる。それだけだ」

 静かに呟くと、彼は「虚無」の木剣を腰に差し、静寂に包まれた村へと足を踏み出した。遠くで鉄虎の家の鶏が一声高らかに鳴き、別の鶏が呼応するように時を告げる。村にはただ、犬の遠吠えだけが渡っていった。

 蓮は人通りのない街道を抜け、丘の頂きを見上げた。老松の影が朝靄の中にぽつんと佇んでいる――まるで天と地を貫く一振りの剣のように。

 彼は心の中で数えた。「五日目だ。あと、三日」

 蓮は歩みを速めた。

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