第3話
「詩音。ねぇ、どこ見てるの?」
早苗の問いかけに詩音は答えない。窓の外を見たまま硬直している。早苗は必死に声をかける。そのうち、自分がまるで銅像に話しかけているのように思えてくる。
「詩音!こっち向いてよ」
詩音の腕をぐっと掴むと、詩音はぴくりと反応を示した。その目は虚ろで焦点が合っていなかった。思わず息を吞む。
「……早苗」
「ここだよ。ここにいるよ」
「生きるって、大変だよね」
「何言ってるの。大変に決まってるでしょ」
「こんなことなら、生きたいなんて思わなければよかった」
「……馬鹿なこと考えないでよ」
詩音はその場で立ち上がった。椅子がぎいっと不快な音を鳴らして動く。右腕を早苗に掴まれたまま、窓に近寄る。早苗は引きずられるようについていく。
腕を握る手に力が入る。早苗の指の関節が白んでいった。
どうか自分の考えが的外れな推測であってほしいと思いながら、詩音を見つめた。
「……三階」
「何が言いたいの?」
返答はない。詩音は自分の世界に入っている。それがどれだけ深刻な状態か、早苗は痛いほど理解していた。かつて自分もこうだったから。
詩音は窓枠に手を添えて、窓を頭突いた。こつん。
その乾いた音が妙に教室に響いた。早苗は息苦しさを感じ、呼吸を忘れている事に気がついた。
その時、教室のドアが開いた。扉がレールを滑る音に、ビクッと肩が跳ねる。
振り返ると、美術教師の谷崎が立っていた。縁の細い丸眼鏡をかけ、長い髪を後ろで束ねている。その手は小さなカギをもてあそんでいた。
谷崎はこちらに気がつくと、怪訝そうな顔をして言った。
「お前たち何してんの?」
谷崎の声に、詩音は無反応だった。ただ、地面を見下ろしている。こつん、と窓を頭突く。
早苗は努めて笑顔を作った。
「すみません、話してたらこんな時間になってました」
「ふーん、まぁいいけどさ。そろそろカギ閉めるから出てってね」
早苗は詩音の腕をもう一度強く引いた。反応はない。窓に頭を打ち付けている。
「……そっちの子は何してんの?なんか……拗ねてない?」
谷崎は詩音を顎で指した。当の本人は上の空で、恐らく谷崎の存在にすら気がついていない。目を細めてた谷崎に向かって、反射的に早苗が叫んだ。
「あの……!」
それから、言葉に詰まった。
どう言えばいい?恋人がここから飛び降りようとしてます、とでも言えばいいのだろうか?仮にそう言ったとして、この教師はどんな反応をするだろう?
「……もう少しだけ話しててもいいですか?カギ、置いといてもらえれば私が閉めますから」
谷崎は顎に手をやり、うーんと唸った。それから、カギを机の上に置いた。
「じゃ、それで。カギは職員室に返しといて。なんかあったら学年主任の先生に言うように」
緩い。教師として褒められた対応ではないけれど、今はそれがありがたかった。
早苗は胸を撫でおろした。
「あ、それから、変なことはしないように。って……まぁ、お前らなら大丈夫か」
そう言うと、谷崎は笑いながら二人に背を向けて去って行った。廊下に反響した彼女の笑い声がひどく耳に残った。
谷崎の言葉が、詩音と早苗の個人を信用しているから出たものではない事に、早苗は気づいている。「お前らなら大丈夫。」その言葉を頭の中で何度も繰り返した。
お前らなら、大丈夫。
その時、キュッという音が聞こえて、早苗は我に返った。
詩音は教室の窓を開け放ち、その片腕は窓枠をがっちりと掴んでいる。
「待って!」
反射的に詩音を横へ突き飛ばす。大きな音を立てて、詩音は床に尻もちをついた。
「……」
悲鳴こそ上げなかったが、詩音の顔は歪んでいた。
早苗は倒れこんだ詩音の体を押さえつけるように馬乗りになる。
「ねぇ、いかないでよ……」
声の震えが止まらない。心臓がいつもよりずっと上の位置で鼓動しているように思えた。
都合がいい事は自分でも十分わかっていた。自分で手放したくせに、いかないで、なんて言えない事も知っている。それでも、早苗は懇願せずにはいられなかった。
詩音の瞳が早苗を捉えた。あの日見た目、蛇みたいな切れ長の目。
「……邪魔」
「ッ!」
「降りて」
「……やだ」
繰り返した。早苗が別れを切り出した時、詩音が言っていた言葉。ほとんど無意識に出たその言葉に、早苗自身が動揺した。
「都合がいいのは分かってる。だけど……なんで飛び降りようなんて思うの?」
「……約束だから」
「だから破ってよ!」
その時、早苗の頬が弾けた。重い音と共に、勢いよく体が横に飛んだ。頬骨の辺りに次第に熱がこもっていき、早苗は自分が殴られたことに気がつく。
「……え?」
どちらの声か分からなかった。
詩音は早苗の赤くなった頬を、早苗は詩音の震える拳を見つめていた。
それから、どちらからとなく泣き始めた。
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