母と娘の頃。

15歳の少女、宇多田ヒカルが放った『Automatic』。


その歌声は、まるで新しい時代の扉を静かに、しかし確かに押し開くように、都市の空気を塗り替えていった。


けれどその最先端のサウンドのすぐ裏側には、日本中を静かに飲み込もうとする「闇」が、ぴったりと寄り添っていた。


1999年1月に公開を控えた映画『リング2』の予告が、夜な夜なブラウン管を這いずり回っていた。


長い黒髪の女が画面から這い出そうとする瞬間、リビングの空気が凍りつく。


街を行き交う若者たちのカバンやポケットからは、突如として場違いな電子音が漏れ出す。ピコピコピコ――と、


どこかチープで、だからこそ耳の奥に残る、あの呪いのメロディ。「くるー、きっとくるー」。ガラケーの着メロが、街をリングの呪いで染めていく。


あの頃の夜は、いつも少し湿っていて、少し怖くて、どこか甘かった。




そんな季節のただ中で、僕は重夫からの電話を、夜通し待ち続けていた。


部屋の明かりを消し、窓の外の街灯だけを頼りに、携帯を手に身を縮めていた。朝が白み、昼が過ぎても、着信はなかった。


結局、彼からの電話が鳴ったのは、翌日の昼過ぎだった。一睡もしていない僕の声と、はつらつとした彼の声は、あまりにも対照的だった。


「お前、寝ただろ」


「いや、寝てない。ずっと起きてた」


「僕とお前とで、声が随分違うと思わないか?寝てないというのは、こういう声を言うんだよ」


僕の怒声に、彼は一瞬、息を詰めた。そして、静かに認めた。


「ごめん。実は寝た」


重夫は続けた。家の間取りを思い出しながら。彼の部屋は二階の一番奥で、妹の部屋は階段のすぐそばにある。


妹は寝るとき、ドアを開け放ったままだという。気配に異常に敏感な子で、昨夜も23時を過ぎて外に出ようとした瞬間、


その気配に気づいて目を開けてしまった。妹と母親は、ほとんど同一の存在のように繋がっている。


夜中に外へ出たことが知られれば、母親から何を言われるかわからない。


だから外に出るのをやめ、部屋に戻ってどうするかを考えているうちに、眠ってしまったのだと。


「お前さ、なんとでも連絡取れただろうよ」


「口で言った方が早いと思っただけ。だから、ごめんて」


僕は溜息をついた。重夫の忠告を聞かなかった自分にも落ち度はある。もういい、と話しを促すと、彼はさらに語った。


妹に話したことはすべて、母親に筒抜けになるのだと。義務というより、幼い頃からの習慣だという。


父親と自分は、母親から見れば「自分の味方にならず、平気で裏切る」存在らしい。


だからこそ妹だけは、自分の側に引き留めておきたかったのだろう。妹もまた、何でも母親に話すことを、少しも疑問に思っていない。


「それって、ちょっと歪な関係じゃないか」


「だから、あんな風になったんだと思う。親父とか関係ない。母親の影響だよ」


そして重夫は、静かに頼んだ。


「お前には申し訳ないけど、今は妹と関わらないで貰いたい。母親に何を言われるか、わからないから」


僕は頷いた。


一段落がつき、ふと、胸の奥に何かが引っかかった。


何かを忘れている気がする――


考えを巡らせているうちに、突然、血の気が引いた。9月15日から10月2日。センター試験の申込期間だった。


すっかり忘れていた。浪人してからというもの、試験の日を忘れることなど、決してなかった。それが、完全に頭から消えていた。


これまで、実際には受けないにしても、どこかで「自分はまだ受験生である」と思えていた。


けれど今の僕は、一体何なのだろう。その事実が、胸をぎゅっと締めつけ、その疑問を抱えたまま、僕は新しい年を迎えるのであった。



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