第10話 四葉のクローバー

 外は雨が降っている。

 昨夜からずっと降っている。

 曇っているからか気温も上がらず、今日から八月だと言うのに少し肌寒い。

 梅雨のようにしとしとと降る雨は、もうすぐお昼だが、まだやみそうにない。


 窓を少し開ける。

 外から入り込んでくるひんやりとした空気が火照った頬に気持ち良い。


 浴室の中は入浴剤の花の香りで満ちている。

 バスタブに頭を凭れさせ桃色に染まった温かいお湯の中で目を閉じ雨音に耳を澄ましていると、すごく贅沢なことをしているように思えてくる。


 うつらうつらしていたのだろうか。

 名前を呼ばれたような気がして、ハッと目を開いた。


「保奈美?居るんでしょ?」


 母だ。

 まだ起きたばかりのようなあくび混じりの緩い声。


「いるよ」


 私も我ながら面倒くさそうに響く声で返事をした。

 せっかく至福の時を過ごしていたというのに、という苛立ちがそうさせる。


「いるなら、早く返事してよ」


 母は脱衣場で何やらごそごそ始めた。

 顔を洗うのだろうか。

 歯を磨くのだろうか。

 いや、そうではない。

 服を脱いで、ここへ来るのだ。


 母は昨日の夜に旅行から帰ってきた。

 余程疲れる旅程だったらしく、暫くリビングのソファで放心したように座り込んでいたが、「もうダメ」と化粧だけ落として風呂も入らず眠ってしまったのだった。


「入るの?」

「入るわよ。もう汗で体がべたついて」


 私は慌てた。

 浴槽に立ち上がり、自分の裸体を見下ろして、もう一度湯船に身体を沈めた。

 のぼせそうだが我慢するしかない。

 今出れば母に裸を見られてしまう。

 それを避けるには、取りあえずこの桃色の湯に浸かっているほかないのだ。


 母は遠慮会釈なく浴室の扉を開けた。


 当然だが母も裸だ。

 母の裸を見るのはいつ以来だろう。

 浅黒くくすんだ肌。

 ふやけたように形の歪んだ乳房。

 くびれのないたるんだ脇腹。


 これが年相応なのだろうが、昼の明るさの中で見る母はやはり老いた。

 服を着ていれば、それなりのスタイルに見えるのだが、裸ではごまかしがきかない。

 私の身体も二十五年後にはこんな風に張りを失い崩れた体型になっているのだろうか。

 いや、そんなことにはなるまい。

 私はとても五十歳まで生きられないだろう。

 それはある意味幸せなのかもしれない。

 醜くなっていく自分の姿を直視しないで済むのだから。


「いい香り」


 母は風呂椅子に座り、シャワーのお湯の温度を手で確かめながら話しかけてきた。「一緒に入るなんて久しぶりね」


「そうね」


 私は顎まで湯に浸かりながら、頭の中で過去を振り返った。


 少なくとも母が離婚して夜の仕事を始めてからは、一緒にお風呂に入った記憶がない。

 離婚は私が中学一年生の時だから、母と最後に一緒に入ったのは小学校の高学年だろう。

 微かに妹も一緒に女三人でキャッキャしながらお湯を掛け合ったことを覚えている。


 母は髪を洗い出した。

 眉間に皺を寄せ、目を閉じ、薄く口を開けてごしごしと泡を立てて洗髪する母の顔がどうにも可愛くない。


 三田さんと再婚しても一緒にお風呂には入らない方がいいだろうな、と私はどうでも良い心配をした。


 母がシャンプーの泡をシャワーで流し始めた。


 私は今がチャンスと立ち上がり、「お先に」と声を掛けた。


「待って。保奈美」


 母は思いがけず鋭い声で私を制した。「ちょっと、待って。もうちょっと待ってて」


 私は母の言葉に動けず、そしてまた静かに湯船に戻った。


 母のシャワーの音の向こうにあるはずの雨音に耳を澄ました。

 母が私に何か語ろうとしている。

 それは母にとって、そして私にとってもきっと重要なことなのだ。

 何だろう。


 しかし、シャンプーを洗い流した母はコンディショナーを手にとっても、それを髪になじませても、そして手を洗い流しても口を開かなかった。


 私は眠ったように身動きをせず、桃色の湯船の中でただ窓外に神経を集中させ続けた。


「こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど、笑わないで聞いてほしいの」


 母はボディソープをスポンジに取り、泡立てながら漸く口を開いた。

 こちらを見ることをせず。


 きっと三田さんのことだ。

 母は三田さんと再婚することを決めたのだ。

 その決意を固めるための婚前旅行に行ってきたのだろう。

 そして、この人となら夫婦としてやっていけると確信を深めたのか。


 私としてはあまり聞きたくない内容だ。

 だが、仕方ない。

 母がそうしたいのなら、母にとってそれが幸せだと思えるのなら、私にそれを拒めるほどの大きな理由はない。


「笑わないよ」


 私は桃色に見えるお湯を両手で掬い、両手の中のお湯は透明でしかないことを確認した。

 少しずつ手の中からお湯を零し湯船に戻していく。


「保奈美の病気は私のせいかもしれないの」


 またそれか。


 笑うどころか、怒りが心に兆す。

 浴室の湿気に満ちた空気が喉にまとわりついてきて私を苛立たせる。


「もういいよ、それは」


 母は私の病気のことで自分を責めている。

 これまでの人生で私は度々母から謝罪の言葉を受けている。

 確かに先天的な病気をもった子供が産まれたら、親は自分に責任があるという思いに縛られてしまうだろう。


 しかし、私はもう子供ではない。

 この二十五年間、自分の病気に折り合いをつけながら生きてきた。

 大人になって思うことは、自分の病気は誰かのせいではないということ。

 もちろん私のせいではないし、親のせいでもない。

 あるとすれば運の問題だ。

 この世に確率というものがある以上、誰かにはお鉢が回る。

 それだけのことなのだ。


 あるいは病気も含めて私という人間が存在しているという考え方も持っている。

 それは私の目が二重で、少し眉尻が上がっていて、まつ毛が他人よりも長いのと同じようなことだ。

 耳の上部は少し尖っているが耳たぶの部分が小さく、ピアスをつけると窮屈そうに見える。

 それと同じように私の甲状腺は世間一般の人よりも機能が弱い。

 そういう性質というだけ。

 そんなことに良いも悪いもない。


 そう割り切っているのに、それは自分のせいだと母に謝られると、私は自分の身体に欠陥があると言われているようで、惨めな気持ちが心を萎ませる。


「良くないの」


 母はこちらを見ることなく、ボディソープの泡を身体に塗りたくる。「実は、あなたにはもう一人きょうだいがいたの」


「きょうだい?」

「でも、流産しちゃって……。あなたのお父さんとの子だったけど、結婚する前で、お金も全然なくて、毎日を生きていくことだけで精いっぱいで、その子のこと、私しっかり弔ってあげなかった」

「それが何?」


 熱い。

 暑い。

 もうお風呂から出たい。

 茹って頭が変になりそうだった。


 母が私にとって兄か姉となる人を身ごもったけれど、流産した。

 それが私の病気に何の関係があるのと言うのか。

 母は一体何の話をしているのだろう。

 冗談かと思った。

 しかし、母はいたって真面目に話をしているようだった。


 母はシャワーからお湯を出して、身体の泡を洗い流しながら言葉を震わせた。


「水子って言うの。しっかり供養してあげないといけないの。そうしないと家族に悪いことが起きることがあるんだって」


 母は言葉を詰まらせた。

 泣いているのだ。

 水子を供養していなかったことが、娘の病気の原因だと本気で思い込んで責任を感じているらしい。「でも、もう大丈夫。私、お祓いしてきたから。しっかりお祓いしてもらったから」


 三田さんめ、と思った。

 きっとあの人が母にこんなくだらないことを吹き込んだのだ。

 母はずっと私の病気のことを苦にしていたのだろう。

 家族の誰も甲状腺に欠陥を抱えていないのに私にだけ異常が現れてしまったことを不可思議なことと思っていたのだろう。

 そして、その答えと対処法を三田さんに教えてもらい、それを実行するために三泊したのだ。


「は?何言ってんの?自分を責めるのもいい加減にしなよ」


 私は湯の中に立ち上がり、縋るような母の視線を振り切るように浴室を出た。

 バタンと扉を閉め、ふーっと一息吐く。


 頭がぼわんとしている。

 のぼせているのだ。

 少し気持ちが悪い。


 私は洗面台に手をつき、悪心に耐えた。


 ゆっくり鏡に向かって顔を起こす。

 髪からぽたぽた滴が落ちる。

 その先に自分の裸が見えた。

 母と違いまだ均整がとれている。

 毎週何人もが触る乳房も形は崩れていない。


 少し下がって鏡に太ももまで映るようにした。

 右脚の太ももの内側、付け根に近いところに四葉のクローバーが生えている。

 ワンポイントのタトゥーだ。


 母はこのタトゥーに気が付いただろうか。


 母がタトゥーを見て何と言うかは分からない。

 妹なら蔑むような目で、馬鹿じゃないの、と言うのがすぐ目に浮かぶが、母は意外に好意的に受け止めてくれるかもしれない。

 しかし、昔から良く言われることだが、親からもらった大事な身体を刺青で汚したという思いが私の中で拭い去れていない。

 だから母にはこのタトゥーを見せたくはない。

 見せたくはないが、このタトゥーを後悔しているわけでもない。


 何となく、その場のノリで、将来的なことなどろくに考えもせず入れたのだが、今でもこのタトゥーは気に入っている。

 ハートの形をした葉っぱの図柄も可愛いし、場所が場所だけに普段は人に見られることがないのも良い。

 裸になったときにはじめて目につく幸運の象徴。

 見つけた人は、必ずと言っていいほど「いいものを見た」と喜んでくれる。

 デリヘル嬢をやっていたころは、名前は覚えてもらえなくても、四葉のクローバーの子、という指名が入ることが良くあった。

 このタトゥーのおかげで、お客さんの記憶に私は生きることができるのだ。


 ある時期、身体に絵を描くことにどうしようもないぐらい魅力を感じた。


 針を刺す痛み。

 流れ出る赤い血。

 二度と消えない痕。


 タトゥーを入れることは、自分という人間が生きた証を自分の身体に刻むことに思えた。

 生きた証を刻むためのタトゥー。

 先天的に身体が弱く、常に死を意識して暮らしている私にはそれが大きな意味を持つように思えた。


 そして、タトゥーを入れて以後、私は少し自分に自信が持てたような気がしている。

 街を歩くときも、私は他人の持っていないものを隠し持っていると思えた。

 男の人の前で服を脱ぐときも、私が見せるものは裸だけではないという快感があった。


 私は身体を拭き鏡に映った自分の裸体をもう一度見た。

 白い太ももの内側に、幸運の象徴が垣間見える。


 私は生きている。

 母が泣こうが笑おうが私は私の人生を歩んでいる。

 四葉のクローバーは私にとって人生の象徴だ。

 幸運は常に私と一緒にいる。


 脱衣場の窓の脇に緑色の石が置いてあるのを見つけた。

 また、パワーストーンだろうか。


 私は身体を拭き、服を身に着けながら何度もパワーストーンを見た。


 母がこういうものに凝るようになったのは全て私の病気を何とかしてやりたいと思ってのことなのだろうか。

 だとしたら全く迷惑な話だ。

 そんなことに気を回すぐらいなら自分の店がどうしたらもっとお客さんを呼び込めるかということに傾注してほしい。

 それの方がよっぽど建設的で生産的で、そのおかげで少しでも我が家のやりくりに余裕ができれば、私の心配事が減るというものなのに。


「お母さん?」


 私が呼びかけると浴室の扉の向こうから、まだ潤みを帯びた声で「何?」と返事があった。


「ありがとね。でも私、大丈夫だから」

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