島根県大田市大森に鎮座する、日本最大級の銀山、石見銀山——皆さまも知ってのとおり、現在は閉山中のこの銀山は、Wikipediaさんによると戦国時代後期~江戸時代前期に最盛期を迎えていたそうです。あ、日本史の教科書に載ってる?載ってますよね、そりゃ。レビュー者が元理系選択なのでそこは大目に見てください。
さて話はそれましたが、本作は、現在は世界遺産でもある石見銀山で働いていた男女の物語。静かな、淡々とした作風で、きっとかつてあったであろう物語が綴られています。派手なシーンはいっさいなく、それがむしろこの物語にリアル味を与えている、と自分は感じました。もちろん実際に銀山で働いていた人々はもうこの世にはいないわけですから、銀山で繰り返されていた日常はすべて想像によるもの。けれども、日常などというものはたいていの場合、同じような日が淡々と繰り返されるもの。たまに誰かが結婚した、誰かが子供をもうけた、誰かの子どもが巣立った、誰かが死んだ……という一瞬の激情を伴うイベントが起こるだけ。そういう意味で、本作は銀山での日常をよく描いていると思われます。
作中で、レビュータイトルの台詞が登場します。
「なぜそこまでして銀を作るのか。」。
「これしかできないからだ」。
当時はずっと職業の選択が狭かったため、本当にそうだったに違いません。現代でも幅が広がったとはいえ、出来ることに限りはあります。ですが、当時は現代では考えられないほどに選択の余地がなかった。小作人の子は小作人に、坑夫の子は、坑夫に。たとえそれが危険を伴う職業なのだとしても。
石見銀山の歴史を体感できる、良作です。未読の方はぜひ、手に取って読んでみてください。
石見銀山の歴史物語。ともに若い坑夫の男と灰吹きの女の生涯が、突き放した視点から淡々と語られる。一言で言えば凄惨である。坑夫は単に落盤や出水の危険に身を晒すだけでなく、岩盤の熱破壊に伴う有毒ガス、粉塵の吸引、酸欠、きつい労働などが命を徐々に削っていく。一方の灰吹きも同様である。銀鉱石の精錬は鉱石を破砕し焙焼するが、その際に硫化水素や砒素などの毒を吸引することは免れられない。高温の炉の光は目を灼き、視力を少しずつ奪っていく。だが彼らは他に生きる地もなく、父を奪った鉱山や命を縮める銀吹屋で働くしかない。自分たちの運命は百も承知。それでもここで生きると覚悟が決まっている。その生き様は淡々として凄まじい。
やがて銀山は役割を終える。年老いた二人は山を降り、まもなく亡くなる。多くの命が或いは短い、或いは苦しみの生を閉じた。だが掘り出された銀はこの世のどこかを今も回っている。物語の終わり、一人の女性が銀山跡を訪い、人々の営みに頭を下げる。果たして現代の我々の感謝だけで彼らの苦しみを贖えるのかよくわからないが、彼らには彼らの生があり、そこには誰にも否定できない生き様があった。その人生への敬意を表して頭が下がるのは、自然なことなのだろう。