第五章 同室(1)
明然はためらいながら、あのとき見たものを話し始めた。
「私……たぶん、幻覚を見ただけだと思います。あの絵の後ろに“誰か”が立っていて、じっと私を見ているような気がして……」
雪児は少し考え込んだあと、明然を見つめて静かに尋ねた。
「それから? その“人”は、悲鳴を上げるほど恐ろしい姿をしていたんですか」
「そういうわけでは……ただ、似ていたんです。あの……」
「何に?」
「新婚夫婦の部屋の窓にいた人に……」
「え?」
「結婚式の夜、私はあの部屋でお兄さんを待っていました。真夜中になって、“あの人”が現れたんです……」
「どんな姿でした?」
「すごく怖かったです。何度生まれ変わっても晴らせないほど、私を恨んでいるみたいな顔でした」
「昨夜、何があったんですか」
明然は焦点の合わない目でうつむいた。
あの亡霊を思い出しただけで、身体が無意識に小さく震え始める。
「窓の外に現れて、顔をガラスへ押しつけるようにして、部屋の中の私を睨んでいたんです。髪がすごく長くて……どんどん伸びて、窓を全部覆ってしまって。顔は死体みたいに真っ白でした。目が……悪魔みたいで、私を生きたまま食べてしまいそうで……。怖くなって、気を失いました」
「昨夜は、悲鳴なんて聞こえませんでしたけど。明然さんなら、屋敷が崩れるほど叫ぶと思っていました」
「叫んだかどうかも覚えていません。声を出すより先に、気を失ったのかも!」
雪児の顔には、相変わらず何の感情も浮かんでいなかった。
明然はそっと目を上げ、雪児の様子をうかがった。
何を考えているのだろう。
心の中で、自分を笑っているのではないだろうか。
雪児は大したことではないと言わんばかりに、何気なく口を開いた。
「私の家はカトリックですから、幽霊だの祟りだのという迷信は信じません。でも、明然さんほど臆病なら、白い布が風に揺れただけで、キャスパーが『ハロー』しに来たと思いそうですね」
明然は目を見開いて雪児を見つめた。
目尻には、うっすら涙まで浮かんでいる。
言い返そうとした言葉は、喉につかえた。
やっぱり、また馬鹿にされた。
こんなことなら話すんじゃなかった。
この冷血女め!
明然が心の中で雪児の一族十八代にわたり、丁寧な“挨拶”を送っていると、雪児が淡々と続けた。
「ただ、本当に怖がっていることくらいは分かります。今夜また、そのよく通る声を聞かされるのも困りますから、仕方なく私の部屋で寝かせてあげます。今、この屋敷にいるのは私たち二人だけですし、夜中に二階まで明然さんの様子を見に行くほど暇ではありません」
明然は奥歯を噛みしめた。
優しく話したら死ぬ病気にでもかかっているの?
この忌々しい冷血女!
そう罵りたかった。
けれど、一人で二階に寝るほどの勇気が、もう残っていないことも事実だった。
仕方なく、強がるふりをした。
「ありがとうございます。雪児さんが一人で寝るのを怖がっているなら、同じ部屋で寝てあげても構いません。でも……ベッドはいくつあるんですか」
「一つです。私の部屋はホテルのツインルームではありませんから」
「大きいんですか」
「いいえ。私一人が寝られる程度です」
「では……私はどこに?」
「床です」
「…………」
明然は石になったように身体を固め、何も言えなくなった。
自分の部屋へ戻った方がいいのだろうか。
この良心を犬に食わせた冷血女と寝るくらいなら、幽霊と寝た方が――。
いや、駄目だ。
幽霊が一緒では、絶対に眠れない。
冷血女なら、多少の苦痛はあっても、命まで取られることはないだろう。
神様。
毎晩眠れなければ、遅かれ早かれ、私もあの幽霊の親戚になってしまいます。
長い葛藤の末、明然は泣き笑いのような顔を雪児へ向けた。
汚い言葉を吐き出さないよう、必死にこらえながら言う。
「では、二階へ行って、毛布と枕を取ってきます」
「そうですか。私の部屋は絨毯が敷いてありますから、それほど寒くはないと思いますよ」
「ありがとうございます。本当に“ご親切”ですね」
「ご親切」の部分だけは、歯を食いしばり、一音ずつ隙間から押し出した。
今の顔はきっと、唐辛子と檸檬と胡椒を混ぜ、醬油までかけて食べさせられた猿よりも歪んでいる。
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