第2話 フレグランスの香り

「それでは、106,148円のお振り込みとなります」

 4番窓口の女子職員が金額に指を差して説明する。

「ああ、はい・・・」

 菅原恭一郎は、一応、頭は下げるが、「十万でどうやって暮らせって言うんだよ。」と、毎度のことながら胸の奥では同じセリフが繰り返される。


「次回認定日は〇月〇日になります」

「ありがとうございました」

 恭一郎は、雇用保険受給資格者証を受け取り、窓口を離れた。


 失業保険を貰うためには指定された日時に、新宿ハローワークの担当窓口に出向かなければならない。その時間に訪れると、待合の椅子はたいてい人で埋まっている。こんなに失業者が多いのか。と思わされる。老若男女。雑多な人々が溢れている。


 恭一郎は受給資格者証の金額を見つめながら、廊下に出てエレベーターに向かった。

 失業保険はここに来て現金でもらえるわけではない。

 今、手にしている紙っぺら一枚を貰うと、二、三日うちに自分の口座に振り込まれる。

 そのタイムラグも結構ストレスだ。財布を開けると千円札が一枚しかない。

「二日持つか? 三日は無理だぞ」


 西新宿にある高層ビル新宿エルタワーの23階にハローワークはある。

 エレベーターに向かう間に、廊下の窓から新宿の景色が一望できる。

 ビル、ビル、ビル。

 果てしなく続く都会の街並み。コンクリートとガラスと鉄。見渡す限り灰色だった。

 恭一郎には、この街そのものが息苦しそうに見えた。


 無機質な銀色のエレベーターの扉の前で待っていると声を掛けられた。

「菅原さん?」

 ふと見ると、40代ぐらいの女性が立っていた。見覚えのある顔だ。誰だっけ?

「私、桐野陽子です。覚えてます?」

「ああ、陽子ちゃん。お久しぶりです」


 陽子ちゃんは、シナリオセンターに通っていた頃の同期だ。

 約二十年前のことだ。

 恭一郎は映画の脚本の勉強をしようと、青山にあるシナリオ学校に通っていた。その時の同期生である。授業が終わると、決まった仲間でよく飲みに行った。陽子ちゃんもその中の一人だった。高校野球が大好きで、高校球児の青春モノの脚本を書きたい。とよく言っていた。


「どうしたの? こんなところで」

 恭一郎がそう聞くと、

「取材です。ハローワークの現状を知りたくて。今書いてる脚本に、ハローワークが出てくるもんですから」

「すごい。仕事になってるの?」

「いえいえ。私が今やってるのは、Web動画でよく見るショートストーリーとかですよ。なかなか、映画やドラマの脚本は壁が高くて、企画が通りません」

 それでも恭一郎は驚いた。脚本家として独り立ちできるなんて滅多にない。

「菅原さんは?」

「俺は・・・失業保険の手続きだよ。はは・・・」

 恭一郎は、恥ずかしくて情けなくて、下を向いた。

 ピンポン。と音が鳴って、エレベーターが到着した。


 新宿エルタワーのエレベーターを二階で降りる。

 長い歩行者デッキを新宿駅西口に向かう道すがら、陽子ちゃんとは昔話に花が咲いた。

「私、菅原さんの撮った映画、好きだったな」

「ああ、そんなの、あったね」


 そんなの。とは、

 恭一郎が、昔、創った自主制作映画である。

 映画監督を夢見ていた恭一郎が、シナリオセンターに通っていた頃に書いた脚本だった。昔ながらの映画好き仲間を募って創ったモノだ。陽子ちゃんもスタッフとして参加してくれて、随分お世話になった。あの時は、ありがとう。と頭を下げた。


「あの映画面白かったです。だって、IFFで入賞して、DVDにもなったでしょ。私、今でも持ってますよ。DVD」


 IFFとは、インディーズ・フィルム・フェスティバル。

 そのアマチュアコンテストで入賞すると、DVDになって、レンタルビデオ店に並んだ。

 恭一郎の作品も入賞し、DVDになった。

 それを陽子ちゃんはまだ、持ってくれていると言う。もう二十年ぐらい前の話だ。


「菅原さん、もう創らないんですか?」

 陽子ちゃんが、真っすぐにこちらを見て、聞いてきた。

「いや。俺はもう、55だよ。無理でしょ。それに、実は病気で失業保険貰っているんだ。まずは何より、この体を立て直さなくちゃね」

「えっ。なんの病気ですか?」

「糖尿病だよ。うちの家系みたいなんだ」

「そうなんですか。お大事にしてください」

 陽子ちゃんの顔が、打って変わってどよんと曇った。話題を変えた方がいいと思い、

「ネットで見れるの? 陽子ちゃんの作品」

「ええ。あ、LINE交換しましょ。後でいくつか送ります。菅原さんのご意見伺えると嬉しいです」

「俺なんかに見せても仕方ないよ」

「そんな。昔はよく飲みに行って、議論したじゃないですか」

 そう言われ、仕方なくスマホを取り出した。


 新宿駅西口の改札口で陽子ちゃんとわかれ、恭一郎は中央線に乗った。

 中野駅に着きホームを降りると、LINEにメッセージが入った。

 陽子ちゃんからスタンプが送られてきていた。


 ファイト!


 パンダが旗を振っていた。

 恭一郎は、しばらく見つめたままになった。


 *   *   *


 一方、山口県防府市の夜は賑わっていた。

「かんぱ~い」

 グラスが十個合わさって、カチン。カチーンと鳴り響く。

 居酒屋の奥にある桟敷には、男女五人ずつ計十人がテーブルを囲んで座っている。

 テーブルの一角には、和也、倉本、加恋がいる。

 加恋が誘った飲み会に和也と倉本は、結局参加することになった。


 加恋の隣には、仲村美穂が座っている。

 その美穂が、和也と倉本に対して興味津々に聞いてきた。

「じゃあ、二人とも同じ大学の4年生?」

「バイトも一緒だよ。うちのお店で働いてくれています」

 加恋が補足しながら、テーブルの上の料理を小皿に取り分け始める。


「4年生だと、就職は決まったんですか?」

 美穂が聞くと、倉本が元気いっぱいに答えた。

「目下、就活中です!」

 和也は、飲み会に慣れていないので居心地が悪い。

 つい、背中を丸めて目を合わさないようにしてしまう。

 ビールに口をつけながら、「自分もです・・・」と一応、答えた。


「頑張ってくださいね」美穂がニコッと笑いかける。


 今度は倉本が聞く。

「皆さん、西沢さんの同級生なんですか?」

「そうですよ。私達は加恋の同級生です」

「じゃあ、僕らの二個上ってことですね」

「ごめんなさい。おばさんで」

「ぜ~んぜん。ぜ~んぜん。です」

 倉本は大きく手を振って答えた。

 テンションが上がり切っている。

 どうやら、この飲み会を満喫しているようだ。


 目の前に座っている加恋が、取り分けた小皿を「はい。菅原君もどうぞ」と置いてくれた。

 差し出された料理とは明らかに違う匂いが漂ってきた。

「ん? なんの匂いだろう」

「あ、ごめんね。私のフレグランスかも」

 加恋が手で辺りを仰いで、匂いを散らす。

「食事の邪魔になっちゃうね」

 その物言いが妙に奥ゆかしかった。


 和也はドキッとした。

 フレグランスの香りだって新鮮だった。

 バイト先では普段見ない、加恋の新たな一面を見た気がした。


 和也は思わず、ボーと加恋を眺めてしまった。

「ん?なに」

 笑顔を向けてくる加恋。

「あ、いただきます」

 といい、和也は急いで箸を口に運んだ。


 倉本は就活話で場を盛り上げていった。

 自分の面接での失敗談が大いに受けたので、弾みがついたみたいだ。ひとしきり喋った後、今度は話題を和也のことに切り替えた。

「スガは、映像制作会社を希望しているんですよ。なっ」


 和也はいきなり振られて驚いた。自分が話題になるのは照れ臭い。

「単なる映画好きってだけです」

 グラスに口をつけた。

 美穂がすかさず聞く。

「じゃあ、菅原君は映画監督目指しているんですか?」

「そんな、滅相もない」

 手に持ったグラスを傾け、ビールをグイっと一気に飲み干した。


 加恋が和也にビールを注ぎながら、

「へえ、そんな夢があったんだ。映画監督か。すごいなあ」

「やめてくださいよ。西沢さんまで」

「ううん。菅原君なら成れると思うよ。女の直感」

「そんな簡単じゃないですって」

 今注がれたビールを、またまた一気に飲み干す和也。


「本音言うと、自分は新聞記者希望っす。出来ればスポーツ担当で。レノファの取材がしたいんすよ。今、J3ですからね。まずは、J2に上がってもらわないと」

 和也が困った様子だったので気を使ってくれたのだろう。

 倉本が自分の話題に戻した。

「私、レノファのファンです」

「あ、いいですね。今度みんなで試合観に行きましょうよ」

「行きたい。行きたい」

 倉本と美穂は意気投合したみたいだ。


 ×   ×   ×


 かれこれ一時間は経った。

 居酒屋の店員さんがおしぼり3本を桟敷に持ってきた。

 加恋はそのおしぼりを受け取って、アイスペールの氷水につけて、絞る。

 その冷やしたおしぼりを、真っ赤な顔して横になっている和也のおでこに乗せた。

「菅原君、大丈夫?」

「大丈夫です・・・ふう」

「お酒弱かったのね。ごめんね。無理に誘って」

 もう一つおしぼりを絞って、和也の頬にあてる加恋。


「今日はちょっと・・・いつもより・・・ふう・・・いい匂いがします」

「え?」

「西沢さん。いい匂いがする」

「ちょっと、おしゃれしてきたからかな」

「俺、この匂い。好きかも」

「そう、ありがとう」

 おしぼりを当てている加恋の手の上に、和也の手が重なった。

「ああ、冷たくて気持ちいい」

「うん。もう少し冷やしとこうね」


 テーブルの向こうでは笑い声が弾けていた。

 その賑わいから切り離されたように、加恋は濡れたおしぼりをもう一度絞った。


 *   *   *


 夜空の月は雲に半分隠れていた。

 居酒屋を出て、駅前広場から繁華街方面に向かって、加恋と美穂が帰宅の途についている。

 美穂は、スキップでもするかの如く、はしゃぎ気味に前を歩いていた。


 その美穂が、ふと立ち止まり振り返った。

「倉本君って、ずっとサッカー部だったんだって。スポーツ担当になれたら嬉しいだろうな。日焼けも似合うし、最近見ない熱い子だよね。元気があってよろしいって感じ、じゃない?」

「う、うん・・・」

 加恋はリアクションに困った。

 すると美穂が、加恋の顔を覗き込んで来た。

「もう、どうしたの? 加恋」


 加恋は重い口を開いた。

「あのね。倉本君って、細マッチョ君だよね」

「うん、細マッチョ」

「美穂、細マッチョ、好きだもんね」

「なによ。文句ある?」

 美穂が腕を組んで言う。


「ううん。いいと思うよ。それはそれで」

「どうしたの?」

「細マッチョの倉本君ね。恋愛とか、もう面倒臭いんだって」

「なにそれ」

「今日は人数合わせで来てもらったんだけど、最初は断られたの」

「そうだったの」


 加恋は手を合わせ、申し訳なさそうな顔で、

「ごめんね。美穂がハマるかもって心配したけど、やっぱりそうだった」

「ズル~い。ズルいズルい。自分ばっかり菅原君といい感じになって!」

「菅原君も一緒。二人揃って、面倒くさい。って」

「なんだ。もう、あんたら二人は、付き合っているのかと思った」

「そんなことないよ」

 加恋は合わせた手を頬につけて、首を傾げた。


 美穂は、ニタっと笑った。

「でも、久々に見たぞよ」

「なにを?」

「おぬしの母性が溢れておるところを」

「やだ・・・」

 加恋は、恥ずかしくなって背中を向けた。


 美穂は、こういう瞬間を見逃さない。肘をあててグイグイと押してくる。

「さて、どうする長州女。このままおめおめと、引き下がるんか?」

「なに? 作戦会議したいの?」

「もう一軒行く?」

「う~ん・・・とんこつラーメンで締める」

 のった。と言って、美穂が加恋の腕に抱き着いた。


「お腹すいたね~」

「サラダつまんだだけだもんね」


 二人が歩き出すと、雲が晴れ、月が姿を現した。

 満月よりも少し欠けた月だった。



 第2話 終

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