第4話 希望を書く欄


 子ども時代は、終わる日が決まっている。


 この街では、そうだった。十五になった年に、ブロックの子どもは全員、基礎課程を終えて、適性検査を受ける。検査の結果で進む先が決まり、進む先が決まれば、遊び場に来ることはもうない。誰もが知っている段取りだった。だから誰も、驚かなかった。


 検査は、中層の検定所で行われた。


 広い部屋に、端末が何十台も並んでいた。座る席は番号で決められていた。画面に問いが出る。数字の列。図形の回転。工具の名前。配管の図面のどこが間違っているか。手元の操作盤で答えていく。途中で一度、別室に呼ばれて、実技があった。部品の組付けと、締結の力加減と、細かい配線の仕分け。試験官は何も言わず、端末に何かを打ち込むだけだった。


 全部で半日かかった。


 終わると、出口で一枚の書式を渡された。結果ではない。結果は後日、進路指定と一緒に届く。渡されたのは、進路希望調査、と題のついた紙だった。第一希望、第二希望、第三希望。職種の欄が三つ、並んでいた。


 検定所を出たところで、イネスが待っていた。受験の日程は同じでも、部屋は別だった。イネスは自分の書式をひらひらさせて、開口一番、言った。


「ね、これ書いた?」


「まだ」


「あたしの姉さん分の人がさ——ほら、二年前に上の階から訓練行った人。あの人、この欄に三つとも搬送系って書いたんだって。で、来た指定は水処理」


「……検査の結果が、そっちだったんだろ」


「その人の弟も、去年、三つとも水処理って書いて、搬送系に回された」


 イネスは書式を折りたたんで、ポケットに突っ込んだ。


「この欄、何のためにあるんだろうね」


 リュカは、自分の書式を見た。第一希望。第二希望。第三希望。書く欄は、ちゃんとある。線も引いてある。記入例まで印刷されている。書けるようには、できている。書いたものがどこへ行って、誰が読んで、何に使われるのかだけが、どこにも書いていなかった。


 配給所の窓口と、同じ作りだった。行方不明の届出の書式とも、同じ作りだった。書ける欄だけがあって、その先がない。


 リュカはその晩、卓で書式を埋めた。三つの欄、ぜんぶに、設備保全、と書いた。父の仕事だ。それしか書く気がなかったし、それ以外の職種を、リュカはよく知らなかった。


「保全かい」


 祖母が横から覗いて言った。


「うん」


「そうかい」


 祖母はそれ以上、何も言わなかった。止めもしなかったし、喜びもしなかった。ただ、リュカが書き終わった書式を、しわにならないように棚の上に置いた。台所の棚——あの、行方不明の通知がしまわれている椀の、すぐ手前だった。わざとかどうかは、分からなかった。



 進路指定は、十日ほどで届いた。


 薄い印字物に、一行だった。


《リュカ・アーヴェント。第七訓練所・設備保全課程。期日までに出頭のこと》


 希望どおり、ということになる。


 だが、変な気分だった。喜ぼうとして、うまく喜べなかった。希望の欄に書いたものと、指定が一致した。それだけは確かだ。確かなのはそれだけで、リュカの書いた三行が読まれたのか、読まれずに検査の数値だけで振り分けられて、たまたま重なったのか、確かめる方法は何もなかった。当たったのか、当てられたのか。選んだのか、選ばれたのか。紙は一行しか喋らないから、分からない。


 夕方、イネスが指定書を持って駆け込んできた。


「リュカ! あんたどこ?」


「第七訓練所。保全」


「あたしも!」


 イネスは自分の紙を突きつけてきた。同じ訓練所、同じ課程。イネスの希望欄に何と書いたのか、リュカは聞いた。イネスは、にっと笑った。


「三つとも保全。あんた、どうせそう書くと思ったから」


「……検査の点で決まるんだろ、結局」


「かもね。でも、書かないで外れたら悔しいじゃん」


 イネスはあっけらかんと言った。


「書いて当たったんだから、あたしが選んだの。そういうことにしとくの」


 選んだことにしておく。


 リュカは、その言い方を、しばらく口の中で転がした。イネスの割り切りは、いつも実用的だ。確かめようのないことは、都合のいい方に決めて、先へ進む。リュカにはできない芸当だった。リュカは、確かめようのないことを、確かめようのないままポケットに入れて、ずっと持ち歩いてしまう。父のことが、そうであるように。


 ともかく、二人は同じ訓練所に進むことになった。


 偶然か、検査の結果が似ていたのか、誰かがどこかで紙を読んだのか。それも、分からないままだった。この街で唯一叶った希望が、本当に「希望したから」叶ったのかどうか、確かめる窓口は、やっぱりどこにもなかった。



 第七訓練所は、中層の端にあった。


 古い整備棟を転用した施設で、実習場には、街のあちこちから引き揚げられた廃品の設備が並んでいた。死んだポンプ。詰まった熱交換器。焼けた配電盤。訓練生はそれを、教材と呼んだ。教官は、患者と呼んだ。


「いいか。おまえらがこれから触るのは、新品じゃない。この街に、新品はもうほとんどない」


 初日に、年配の教官が言った。手の甲まで古い火傷の跡のある、現場上がりの男だった。


「おまえらが一生相手にするのは、五十年前の設計を、三十年前に改修して、十年前に部品がなくなって、去年どうにか誤魔化した機械だ。手順書どおりに直るなら、俺たちの仕事はとっくにない。手順書どおりに直らないから、人間が行くんだ」


 いいことを言う、とリュカは思った。


 思ったのは初日だけだった。


 訓練は、手順書で始まって手順書で終わった。工具の並べ方に手順があり、点検の順路に手順があり、報告の書式に手順があった。実技の評価は、直ったかどうかではなく、決められた工程を決められた順でやったかどうかで付いた。初日にあんなことを言った教官が、いちばん厳しく手順を守らせた。


 一度、実技試験でこんなことがあった。


 課題は、古い減圧弁の分解整備だった。手順書どおりに分解して、部品を交換して、組み直す。だがリュカの当たった弁は、手順書の想定より、ずっと深くいかれていた。弁座の当たり面が偏って摩耗していて、指定部品を換えただけでは、組んでも必ず漏れる。


 リュカは、当たり面を修正した。


 手順書にない工程だった。だが、手が勝手に動いた。摩耗の癖を指の腹で読んで、修正の道具を選んで、削りすぎない力加減で当たりを出す。誰に習った覚えもないのに、力の入れ方だけは知っていた。重い道具は、大事なところで負けない。頭は嘘をつくが、手は嘘をつかない。


 組み上げた弁は、漏れなかった。試験場のその日の課題で、漏れなく仕上がったのは、リュカの弁だけだった。


 評価は、減点だった。


「工程三を飛ばし、規定外の作業を追加した。減点二」


 教官は端末を見たまま言った。リュカは、思わず聞き返した。


「直ったのに、ですか」


「直ったかどうかは、聞いていない」


「でも、指定部品だけ換えても、あの弁は漏れます。当たり面が——」


「知ってる」


 教官は、初めて顔を上げた。


「俺が見て、分からんと思うか。あの弁はな、当たりを直さん限り漏れる。おまえのやった修正は、正しい。現場なら、上等の仕事だ」


「じゃあ、なんで」


「ここが現場じゃないからだ」


 教官は端末を置いた。


「いいか、小僧。おまえの直し方が正しいかどうかを決めるのは、おまえじゃない。手順書だ。手順書を書くのは俺たちじゃない。もっと上だ。上が書いた手順の外でおまえが何かをやって、うまくいけばいい。うまくいかなかったとき、誰が責任を取る? おまえか? おまえに取れる責任なんて、この街にはひとつもないんだよ」


 教官の声には、怒りがなかった。怒りがないのが、いちばん堪えた。この人は、ずっと前に、同じことを誰かに言われた側なのだ。それが染みて、乾いて、今度は言う側に回っている。声の平らさが、そう語っていた。


「覚えとけ。正しく直す腕は、持ってていい。ただし、使いどころは、おまえが選ぶんじゃない」


 その日の帰り、リュカはずっと黙っていた。実習場を出て、昇降機に乗って、ブロックの通路に入ったあたりで、隣を歩くイネスが、ぽつりと言った。


「直し方まで、配給なんだね」


 うまいことを言う、とリュカは思った。思ったが、笑えなかった。


 配給所の灰色の袋。書ける欄だけの書式。当たったのか当てられたのか分からない進路。そして、正しさの使いどころまで、上から決まった分だけ渡される。並べてみれば、ぜんぶ同じ形をしていた。この街の形だった。


「……なあ、イネス」


「ん?」


「おれ、間違ってなかったよな。あの弁」


「間違ってないよ。漏れなかったの、あんたのだけじゃん」


 イネスは即答した。それから、少し歩いて、付け足した。


「間違ってないけど、次の試験でもやったら、あんた課程ごと落とされるからね。卒業までは手順書の犬になりな。腕は、逃げないから」


 止め方まで、実用的だった。正しいかどうかの話を、正しいまま生き延びる話に、すり替えてくれる。リュカは、分かったよ、と言った。言いながら、胸の奥に、小さくて固いものが残るのを感じていた。飲み込んだのに、溶けないもの。それはたぶん、あの弁と一緒に、リュカの中に組み付いてしまったのだった。



 訓練所の二年は、思いのほか、早く過ぎた。


 リュカは手順書の犬になった。工程を飛ばさず、規定外のことをせず、減点をもらわなかった。実技の成績は、課程で頭ひとつ抜けていた。手が覚えることに関して、リュカは速かった。教官たちは、筋がいい、と言った。筋がいい、の中に、あの試験の日のことを覚えている響きが混ざる教官も、一人だけいた。


 イネスは、座学と応急処置で抜けていた。図面の読みが速く、限られた部材で仮復旧を組ませたら、課程で右に出る者がいなかった。ある教官は、おまえは正規の直しより間に合わせがうまい、と半分呆れて言った。イネスは、正規の部品が来ない街なんだから、間に合わせの方が本業でしょ、と言い返して、その教官に気に入られた。


 二人で組む実習のとき、二人の成績は、それぞれ一人のときより、はっきり良かった。


 リュカが手を動かし、イネスが段取りと安全を見る。リュカが深追いしそうになると、イネスが工程表を盾に引き戻す。イネスが仮復旧で済ませようとすると、リュカが、ここだけは本直ししないと三日でまた壊れる、と譲らない。ぶつかって、擦り合って、だいたい真ん中より少しいいところに落ちる。


 組ませると良くなる二人、というのは、訓練所では知られた話になった。


 卒業が近づいた頃、また、あの書式が配られた。配属希望調査。第一希望、第二希望、第三希望。今度は職種ではなく、配属先の会社の欄だった。


 リュカとイネスは、実習場の隅で、並んでそれを書いた。


「どうせ読まれないんでしょ、これ」


「かもな」


「でも書かないで外れたら悔しいから」


 イネスはそう言って、三つの欄に、同じ社名を書いた。中層に本社のある、中堅の保全会社だった。外郭区画の保守契約をいくつも持っていて、訓練所の卒業生を毎年何人か採る。イネスの書式を横目で見て、リュカも、同じ社名を書いた。


「……あれ、あんた、あたしのに合わせた?」


「合わせてない。ここしか知らないだけだ」


「ふうん」


 イネスは、例の、ふうん、を言った。点検せず、そのまま通す音——のはずだったが、この時のふうん、は、少しだけ機嫌がよさそうに聞こえた。気のせいかもしれなかった。リュカは確かめなかった。確かめようのないことを確かめない癖は、この頃にはもう、すっかり身についていた。


 配属指定は、卒業の五日前に届いた。


 二人とも、書いた社名の通りだった。


 当たったのか、当てられたのか。選んだのか、選ばれたのか。それはやっぱり、分からないままだった。ただ、指定書を見せ合ったとき、イネスが、選んだことにしとこ、と言って笑ったので、リュカも、そういうことにした。


 この街で、そういうことにできるものは、多くなかった。だからせめて、できるものくらいは、そういうことにしておくのだった。

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