第8話 奥の院のイベント
第8話 奥の院のイベント
パパン!
お立ち会い! 組織を支えるのは、表の勇ましき武将たちばかりではございません。奥の院にて内助の功を尽くし、次代を担う若君へと深い愛情を注ぐ、女文字の尊き祈り。
鎌倉公方様の御正室、簗田の局(やなだのつぼね)様! 我が子の輝かしき未来を寿(ことほ)ぐため、鶴岡八幡宮にて盛大なる祭礼を企画なされました!
民草も喜ぶこの美しき行事の裏で、管領・上杉憲実も涙を流して奔走したと伝えられております! ……まあ、当時の政所(まんどころ)の廊下では、局様が引きずる異常なほど高価な絹の着物の擦れる音がするたび、役人たちの首筋から寿命が削れるような冷たい汗が流れ落ち、油と汗の混じった酸っぱい臭いが充満していたなどと申す者もおりますが、それもまた畏れ多き御威光というものでございましょう!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、天下を潤す慈愛の祝祭!
さあさあ、不折の管領、波乱の第八席でございます!
*
ズズリ、ズズリ。
深夜の関東管領邸・執務室に、異常なほど高価な絹の着物が冷たい板の間を引きずる、重く甘い擦過音が響いた。
同時に、極度の徹夜作業に疲弊しきった空間に全くそぐわない、濃厚な白檀(びゃくだん)の香りが淀んだ空気を塗りつぶしていく。
上杉憲実は、手元の算木(さんぎ)を置き、板の間に深く手をついて頭を下げた。
「管領殿。夜分遅くにご苦労なことです」
鎌倉公方の正室であり、次期公方候補の母。鎌倉府の「裏の取締役」とも言うべき絶対的な権力者、簗田の局が、扇子で口元を隠しながら冷ややかに見下ろしていた。
「このようなむさ苦しい場に、局様自ら足をお運びになるとは。いかなるご用向きにございましょうか」
憲実は、額を板の間に擦りつけたまま、声の起伏を完全に殺したビジネス敬語で応じた。
「我が息子が、間もなく天下へ顔見世をする時期を迎えます。ついては、源氏の嫡男としての権威を示すため、鶴岡八幡宮にて三日三晩の大規模な祭礼と舞楽を行いたいのです。特別の予算として、直ちに百両をご用意なさい」
カランッ。
憲実の横で、金庫番の青木勘解由が小さな悲鳴のような息を漏らし、すり減った筆を床に取り落とした。
百両。
その数字が意味するものを、憲実の冷徹な脳髄が瞬時に計算する。
百両あれば、三ヶ月分の兵糧が買える。関税の引き上げによって離反寸前の下請け業者(国人衆)への支払いを補填し、最悪のストライキを回避することもできる。
しかし、目の前の女の脳内には、そんな現場の数字(リアル)など一ミリも存在していない。
「恐れながら、局様」
憲実は、胃の腑を直接鷲掴みにされるような激痛に耐えながら、静かに顔を上げた。
「現在鎌倉府は、幕府からの厳しい監査を凌ぐため、極限の緊縮財政を敷いております。今、そのような実益を伴わぬ大規模な祭礼を行えば、資金繰りが完全にショートし、冬を越せませぬ。どうか、規模の縮小を……」
「管領殿は、やはり底の浅い計算しかできぬと見える」
局は、憲実の提示した冷徹な数字を、鼻で笑い飛ばした。
「嫡男の晴れ舞台をケチれば、他国の者たちは『鎌倉府には余力が無い』と侮るでしょう。これは単なる遊びではない。源氏の威光を天下に示すための『誇り』であり、未来への必要な投資なのです」
誇り。威光。
それは憲実にとって、一粒の米にもならない無価値な単語だったが、社内ポリティクスの権化である彼女には、すべてを論破できる最強の武器だった。
「すでに公方様からも『思う存分やれ』とご裁可をいただいております。明日までに手配なさい。では」
ズズリ、と再び重い絹の音を立てて、局は去っていった。
あとに残されたのは、絶望的な数字の穴と、白檀の吐き気を催すような残り香だけだった。
憲実は、膝の上で握りしめた拳の関節が真っ白に変色するのをじっと見つめていた。
「憲実様」
襖(ふすま)が開き、長尾景仲が足音もなく入ってきた。その手には、次々とクシャクシャになった紙の束が握られている。紙が擦れる乾いた音がした。
「祭礼の会場設営、警備の国人衆への特別手当、舞の役者へのご祝儀。計百二十両の稟議書です」
「……百両と聞いたが」
「局様のご要望を形にするには、追加の広報費が不可欠です。予算は、来季の武具修繕費を全額前借りして計上いたしました」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、青銅製の重い「印章(ハンコ)」だった。木製の天板が軋む。
「現場の兵に、錆びた刀と素手で戦えと言うのか」
「ええ。その不満は、祭礼の熱狂で誤魔化すのです。局様の御機嫌を損ね、公方様がへそを曲げれば、我々の首が即座に物理的に飛びます。……拒否権はありません」
憲実は、直垂の懐に手を入れた。そこにある麻の紙の「出家願」が、カサリと擦れる音がする。
「……こんなくだらない社内政治の虚飾のために、どれだけの命が削られると思っている」
「はい。その削られた命の跡を、書類の上で綺麗に隠し通すのが我々の職分です。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、ハンコを押し続けさせるだけです。明日の朝までに、全ての業者への発注書に決裁を。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
憲実は小さく息を吐き、左の目尻を指の腹で血が滲むほど強く揉み込んだ。
死んだら終わりだ。今は、ただ頭を下げて、この無意味な数字の辻褄を合わせるしかない。
「……御意にございます」
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
深夜の鎌倉府に、かすれた重い墨の音と、虚飾のPRイベントを通すためのハンコの音だけが、虚しく響き続けた。
*
パパン!
「おお、なんたる慈愛! なんたる献身! 次代の公方様の門出を祝うため、身を粉にして見事な祭礼を取り仕切った管領・憲実! その華やかなる舞台の裏で、東国武士たちの絆はさらに強固なものとなったのでございます!
これぞ、武門を支える美しき内助の功と、忠臣の果てなき尽力! ……まあ、武具の修繕費を全て祭礼に注ぎ込まれた現場の兵たちが、どれほどの絶望を味わったかなど、歴史の華やかな絵巻には描かれぬ些末なことにございますなァ!
さあ、威信を取り戻し、次代への希望に沸く鎌倉府! この光り輝く栄華の前に、次なる試練がいかに立ちはだかるのか! 見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」
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