第24話 暗闇の重み

​​「……早く薬を塗らないと」 


 ​暗闇の底から、凛月(リンユエ)の途切れ途切れの声が聞こえる。衣擦れの音と、かさかさと荷を探る手つきが響くが、一寸先も見えない闇の中ではなかなか見つけられないのだろう。


​「この先へ進めば、外の光が差し込む場所があるかもしれない。……立てるか?」


​凛月は無言だった。返事をする余裕すら削られているのだ。


​「背負う」


​ 青山(チンシャン)がそう言っても、凛月はなかなか身を預けようとしない。己の弱みを見せることを拒むような、頑なな気配。


​「早く薬を塗らなければならないんだろう?」 


​ 青山の強い促しに、ようやく凛月も折れたようだった。暗闇の中、青山の肩に細く冷たい手がそっと添えられる。


(……っ)


 背中に預けられた重みに、青山は小さく息をのんだ。これまで自分を圧倒し、生殺与奪を握っていた存在。だが背中に触れているのは、驚くほど柔らかく華奢な少女の身体だった。


​(こんなに……小さかったのか)


 ​「強者」というこれまでの前提が崩れ去り、凛月の等身大の姿が鋭く胸を突く。

 項(うなじ)にかかる熱い吐息と、決して弱みを見せなかった彼女の危うい重み。青山は己で促しておきながら、胸が大きく波打つのを感じた。その揺らぎを振り払うように、悲鳴をあげる脚に力を込める。


​(……この体で二人分)


​ 全身の節々が痛み、膝が震えた。だが、凛月を振り落とさぬように、地面を踏みしめてどうにか立ち上がる。


 外の光が一切届かない洞窟の中、青山はゆっくりと歩みを進める。狭い岩肌に肩を擦りつけ、足元のぬかるみに足を取られながら、ただひたすらに湿った空気の流れる奥へと足を進めた。


​ しかし、背中から伝わる気配は硬く、険しい。手負いで息も絶え絶えであるはずの凛月が、刃のように鋭い言葉を耳元でこぼし続けているのだ。


​「……あり得ないわ。なぜあのとき、私の体が動いたの。理屈に合わない」

「おいおい。命を救ってもらった本人の前で、ずいぶんな言い草だな」


 ​青山は苦笑し、彼女の体がずり落ちぬよう慎重に背負い直す。だが、凛月の声音はいつになく尖り、小刻みに震えていた。


​「揺らさないで……。これ以上、思考が狂ったら困るのよ。大体、あなたのような無力な犬、あの場に捨て置いて私一人で一度離脱した方がずっと賢明だったはず。それなのに……おかげで右腕の経絡は絶たれ、衣は血まみれ。不愉快……本当に不愉快だわ」


「いいから黙っていろ、傷に響く」


「黙らない! あなたが余計な真似をして戻ってくるからでしょう。私はあそこで果てるつもりだった。あのまま一人で刺客どもを道連れにして死ねば、私の『道』を貫けていたはずなのに……何なのよ、あなた。なぜ戻ってきたの」


​ 死地にあっても気高く戦い抜くのが、彼女の誇りだったのだろう。それを青山に乱され、挙句の果てに命を救われて背負われている――その不合理さと、自身の中に生まれた割り切れない感情への混乱が、毒舌となって青山に突き刺さる。動く左手で青山の胸元を小突いてくる態度は、理不尽な八つ当たりそのものだった。


​(よほど己を許せないのだな……)


​ 青山は彼女の不機嫌な態度の裏にある困惑と、必死な呼吸を感じ取り、その毒舌を穏やかに受け止めていた。


​「分かったよ、私が悪かった。君の計算を台無しにしてすまない。だから今は大人しく背負われて――」


​ 言いかけた青山の言葉が、ふっと止まる。

​ 胸元を小突いていた左手の力が、するりと抜けた。あれほど鋭かった毒舌が静まり返り、耳元に届くのは浅い呼吸だけになる。


​「……凛月?」


​ 返事は返ってこなかった。


​​「……おい、凛月! しっかりしろ!」


​ 背中に呼びかけるが、返事はない。凛月の頭が力なく青山の肩口へと落ち、生気のない重みが背全体にのしかかる。糸が切れたように、彼女はそのまま意識を失ってしまった。


 ​それまでの穏やかな余裕は一瞬で吹き飛ぶ。さっきまでの毒舌は、彼女が己の矜持と意識を保つための最後の防壁だったのだ。


​(頼むから死ぬな!)


​ あの日、身代わりとなって散った者たちの血と叫びが、暗闇の中で蘇る。自分のせいで、もう誰かが命を落とす姿など見たくない。強い恐怖に血の気が引いていく。


​「返事をしろ……凛月……っ!」


​ 焦りに突き動かされ、青山は足を速めた。一刻の猶予もない。湿った暗闇を切り裂くように、彼は滑る泥を蹴りながら洞窟の奥へと突き進む。


​ 漆黒の闇の先にかすかな光が浮かび上がってきた。

​ たどり着いたのは――岩壁の隙間から、わずかに外の光が差し込む空間だった。頭上のはるか高い位置に小さな岩の亀裂があり、そこから澄んだ空気が流れ込んでいる。下から見上げても外の景色は見えず、上からもこの深淵は見通せない。天然の換気口を持ちながら、追手の追跡を完全に断絶できる、まさに理想の隠れ穴だった。


​(湧き水もある……天の助けだ)


​ 青山は滑り込むようにして、凛月の体を平らな岩肌へとそっと横たえた。

​ 点穴を施したのだろう、血は止まっている。だが彼女の白い衣は、右肩を中心に赤黒い血で染まり切っている。血の気を失った顔色は蒼白で、さっきまでの気丈な毒舌が嘘のように静まり返っていた。


​ 青山は急いで薬を探し、凛月の薬袋を弄(まさぐ)った。引っ張り出した小さな薬壺の蓋を開けると、黒くドロリとした軟膏が入っている。生薬特有の苦い香りが鼻をつく。外傷に効く金創膏(きんそうこう)の類だろう。


​(……たぶんこれだ)


​ ​急いで傷口に塗ろうと彼女の身頃へ手を伸ばしかけ――青山の手がぴたりと止まった。

 手当をするには、血と泥がこびりついた衣を脱がせる必要がある。いくら手当てとはいえ、意識のない凛月の衣に手をかけることへの強い抵抗が、青山の胸をかすめた。


​(凛月が目覚めるのを待って、自分でやらせるか……?)


 ​だが、そんな猶予がないことは蒼白な彼女の顔を見れば明白だった。余計な雑念を振り払うように一息吐き、青山は意を決する。


​「……すまない」


 ​誰もいない空間に小さく断りを入れ、青山は湧き水で手ぬぐいを濡らした。傷口の周囲にこびりついた血と泥を慎重に拭い去り、剥き出しになった傷へ一気に軟膏を塗り込んでいく。


​「……っ!」


​ 激痛のあまり、凛月の華奢な体がびくりと跳ねた。眉根は苦痛に歪み、喉から漏れた細い声が洞窟の岩壁に虚しく響く。それでも彼女の目が開くことはなかった。


​

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