チャールズ・ダーウィンとアラン・チューリングの両者が、人間の聖域を内外問わず解体し尽くした。
進化と発展の先にあったのは、我々もまた多くの家畜や昆虫を見て想像するような――決まりきったオートマトンであるという耐え難い事実であった。
それが許せなくて、当時の人々はダーウィンの顔に猿の身体をつけてバカにした。そして、現代の我々もまた、AIにはどこか及ばない領域があるのだと色々と理由をつけている。
なんとかして人間という存在、叡智を別格化しようとしている。
この評論は、そんな我々が本質(限界)を誤魔化さないまま、それでも激動の時代を前向きにエキサイトできる根拠を載せている。
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AI――というか技術全般に対する嫌悪、不気味さは「量産」にある。
技術(道具)の真髄は必要なときに特定のステップを再現できることであって、それが安定をもたらしたのは間違いない。
それは顔も知らないどこかの誰かを模している間は大いに歓迎されたが、その対象が自分に向いた瞬間、強烈なアイデンティティクライシスを生み出した。最近ではタンパク質の膨大なパターンすら概算できるようになって、これは出来まいと踏んだ研究者各位も愕然としたことだろう。
さながらクローンに取って替わられたオリジナルの気分だろう。
自分は一人しかいないはずで、一つの席に悠々と座れたはずなのに、まさか取り合いになるだなんて。
それでも最初はどうせうまくいかないと思っていた。自分抜きで回るものかと。
しかし、どうにも上手いこと――それも以前よりもよくなっていると聞く。それが全人類の大半に向けられて、引き起こされた。
オートマトンはPC上で再現される。それが複雑であっても、単体であるならば何とかなることが、AIを通じて立証された。
そんなはずはないと思うのなら、過去の自分の行動を振り返ってみるといい。見事なまでに型に嵌まってはいないか。統計学が薄々示していた事実がはっきりと表に出たのだ。
我々はオートマトンの集合体である。しかしそれらは再現し得ないだろう。脳を再現出来ないように。
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バタフライ・エフェクト。
蝶の羽ばたきが数日後には嵐に変わるかもしれないというその格好いい文章は、「説明は出来ても再現は出来ない」カオス理論の例えによく用いられ、それはそのまま人間の可能性に繋がる。
誰かとの対話、気まぐれのお出かけ、僥倖あるいは災難。
それらすべてが羽ばたきとなって、後に何らかの影響を与える。善悪も大小も何もかもが未知数。波紋に意志がないのと同じだ。
カオスの嵐の中にいる我々のステータスはただでさえコロコロと変わる。
そんな我々が出会い、相互に組み替えれば、膨大なコーパスの泉を以てしてもまるで足りないだろう。
ここまで聞くと、AIに勝ったんだという話がまたも登場してきそうだが、勝った負けた、優れる劣る、そういう発想そのものから脱却すべきフェーズに来ていると本作は告げる。
AI――技術は再現、安定性をもたらすものであって、決して人々にナンバー・タグを貼り付けるためのものではない。
カオスの中に佇む我々が安定した地盤を得て行うべきことを、私なりの言葉で述べるならば「アドリブ」である。
第三者からして演者がアドリブをしたという事実は存在する。だが思いつきに至る過程は、当人のみが知る領域だ。
コピペされたルールの中で、ほんの少しの火花を散らす。それがどのような変容をもたらすか。それを「欲する」のは、依然人間の役割なのだ。