第2話 雨の街

祖父は、寡黙な人だった。

東京まで俺を迎えに来た時もそうだった。


その頃、俺の顔にはまだ、青くなりかけた大きな痣が残っていて、祖父は俺の顔を見てただ一言、母さんに言った。


「この子は、俺が連れて帰るけんね」

 

母さんは何も言わなかった。


俺が東京の家を出ていく時、母さんはリビングのソファに座っていた。

俺は玄関で靴を履きながら、俺は母さんが何か言ってくれるのを待っていた。


ーー行かないで。
 

ーーごめんね、母さんが悪かった。
 

ーーあの人とは別れるから。
 

ーーもう大丈夫だから。
 

ーーあなたを守れなくてごめん。


どれでもよかった。

何かひとつでも、俺を選んでくれる言葉が欲しかった。

でも母さんは、最後まで何も言わなかった。


だから、俺も言わなかった。

いってきますも、さよならもーー何も言わなかった。


***


転校初日も、雨だった。

というのも、長崎に来てからほぼ毎日雨なのだ。


「幸音」


玄関で靴を履いていると、奥から祖父の声がした。

佐久間宗一郎ーー父さんの父親で、俺にとってはほとんど知らない老人だったが、今では一つ屋根の下で一緒に暮らしているのだから、何だか不思議な気分だ。


長崎に来て一週間。
 

俺はまだ、祖父のことを「おじいちゃん」と呼べずにいる。


「傘ば持ってけ」


「大丈夫。降ってないし」


「これから降るけん。こいはお前の父ちゃんの傘やけん、お前が使え」


宗一郎さんはそう言って、黒い傘を差し出した。

 

東京ではスマホの天気予報ばかり見ていたけれど、この町では、年寄りの膝の痛み具合とか、港からの風とか、雲の色とか、そういうものの方がよほど信用されているらしかった。


俺は黙って傘を受け取った。


「……行ってきます」


「あぁ、きいつけて行ってこい」


その声があまりにも普通で、俺は一瞬、泣きそうになった。

ばかみたいだと思った。

たったそれだけの言葉で泣きそうになるなんて、俺はどれだけ弱い人間になったのだろう、と。

 

俺が転校する県立青陵高校は、気の遠くなるような坂の上にあって、毎朝登校するだけで、罰ゲームみたいな坂を登らされることになるのだ。
 

東京の平たい道に慣れた俺の足には、長崎の坂道は容赦がない。


坂道を登っていると、生暖かい風が吹き、俺はふと、東京のことを思い出した。

東京の風は、もっと乾いていた気がする。

ビルの隙間を抜けて、排気ガスと人の匂いを混ぜたまま吹いてくる何とも言えない風。

あれはあれで嫌いではなかったが、ここの風はどこか心地いものだった。


潮と、古い石段と、濡れた木の匂い。

知らない町の朝なのに、どこか昔の記憶に触れてくるような匂いがした。


ーー父さんと、昔この町を歩いたことがある。


俺がまだ小さくて、長崎の坂道にすぐ音を上げて、父さんに何度も「抱っこ」とせがんでいた頃で、父さんは笑いながら、いつも俺を背負ってくれた。


『幸音、雨はなぁ、穢れを洗い流して、みんなに幸せを運んでくれるんだ。この町にはな、光の雨が降るんだぞ』


父さんはそんなことを言っていた。


あの頃の俺は、その意味なんてわからなかったが、雨には何かを綺麗にする力があるのだとわりと本気で思っていたものだ。

父さんがこの世からいなくなった、あの時まではーー。


***


校門に着いた頃には、シャツの背中が少し汗ばんでいた。

空は曇っていて、港の方から、湿った風が吹いてくる。


青陵高校の校舎は、東京の学校よりも少し古く見えた。


白い外壁は雨に濡れたようにくすんでいて、窓枠のあちこちに錆が浮いている。

坂の上から町を見下ろすその建物は、長い間ずっとここで生徒たちを迎え続けてきたような、妙な落ち着きがあった。


玄関前には、傘立てがいくつも並んでいる。

まだ雨は降っていないのに、すでに何本か傘が差し込まれていた。


俺は宗一郎さんに渡された黒い傘を傘立てに入れた。


ーーその瞬間、少し迷った。


父さんが使っていた傘、なくしたらどうしよう、と。


傘は傘だ。

誰かの形見だとか、思い出だとか、そういう重たい事情をつけたところで、雨を防ぐ道具であることに変わりはない。


それでも、俺は傘を取りにくい奥の方に差した。

誰かに間違えて持っていかれないように。


昇降口で上履きに履き替えていると、「佐久間くん、かな?」と、背後から声をかけられて、反射的に肩が跳ねた。

自分でも嫌になるくらい、体が先に反応した。


「あ、はい」


「驚かせて悪いな。一年二組担任の山﨑です。今日からよろしく」


「よろしくお願いします」


俺は反射的に頭を下げた。


「長崎はもう慣れたか?」


「……いえ、坂が多くてきついです」


「そうやろうな。こればっかりは慣れてもらうしかなかけんね」


先生はハハッと大きく笑った。


「でも、景色はすごく綺麗です」


「そうやろう。海なんか、そりゃもう綺麗なんやけん」


長崎弁は、耳に柔らかかった。

語尾が少し丸くて、坂道みたいに上がったり下がったりする。


昔、父さんも家で少しだけ長崎の言葉を使うことがあった。

怒った時ではなく、眠い時や、機嫌のいい時にだけ。

だから俺にとって長崎の言葉は、どこか懐かしい。

懐かしいぶん、少し胸の奥がキュウっと痛んだ。


「佐久間」


「はい」


「この学校は、まあ、いい学校だよ。やけど、しんどい時に無理して馴染もうとせんでよかけんね」


俺は先生を見た。

先生は何か知っているのだろうか。

俺は、どう返せばいいのかわからなかった。


先生はそれ以上何も言わず、俺は黙って先生に連れられて廊下を歩く。

そうして、先生は一年三組の教室の前で立ち止まった。


「ここがお前のクラスやけんね。まぁ東京の学校と違って五組までしかなかけん、場所は大丈夫やろ」


一学年に五クラスしかないということに俺は衝撃を受けた。

しかも、一クラスに三十人程度しかいないのだから、これはまた驚きだ。

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