第28話空欄

七十四階層で、零が飴を落とした。

 芳江さんが背嚢の底に入れておいた小さな包み。零が指を伸ばして、掴んで、そのまま指が閉じ切らずに床へ転がった。

 零が自分の手を見た。もう一度掴もうとして、二度目も同じところで力が抜ける。

「柚葉」

「はい」

 柚葉が飴を拾って包みを剥き、零の口元へ運んだ。零が口を開ける。舌の上で転がる音がして、頬がわずかに動いた。

「あまい」

「甘いですよ」

「ゆびで、もてなくても、くちでもてる」

 誰も笑わなかった。島さんが背を向けて背嚢の紐を締め直し、ミナトが図面の角を意味もなく折り、リクトとダイゴが同時に手袋を嵌め直した。全員が同じ十秒を、別々の作業で埋めた。

 零がもう一度、床の飴の包み紙を見た。落とした側の紙を、拾い直そうとはしない。

 俺は零の輪郭を見ていた。ライトを当てなくても分かる。六十五階層で薄いと思った。七十二階層で倍だと思った。今はその倍だ。

「戻れ」

「やだ」

「三度目だ」

「うん。みたびめ」

 零が飴を口の端に寄せて言った。

「ねっこにちかづくと、うすくなる。うすくなるけど、きえない。きえるまで、いる」

「消える線はどこだ」

「わかんない」

 零が首を傾げた。傾げた拍子に、銀の髪の一部が肩をすり抜けて落ちた。

「でも、とうまのそばにいると、ちょっとだけ、こくなる」

 俺は返事をしなかった。返事の代わりに歩調を落として、零の歩く側に自分の位置を移した。

 七十六階層で通路が変わった。

 ミナトの声が止まった。

「……ないです」

「何が」

「壁が。三分前に通った分岐がありません」

 ライトが空を切る。左手にあったはずの穴が塞がっている。塞がっているのではなく、最初からそこに岩がある顔をしている。継ぎ目も、削った跡もない。

「ミナトさんの測量が狂ったんじゃないっすよね」ダイゴが訊いた。

「歩測の数は合ってます。合ってるのに、地形が違う」

「ふたつめ」

 零が床に手を当てた。当たっているのかどうか、光の通り方では判断がつかない。

「ゆびさき、うごいた。ねっこ、ねてるとき、ゆびだけうごく」

「起きたんじゃなかったのか」

「おきかけ。まだ、めをあけただけ。てはうごいてない」

 俺は喉の奥で数えた。結び目は全部で六つ。ひとつ目が開いて目が覚めた。ふたつ目が開いて指が動いた。この調子なら三つ目で腕が動く。

 手が動いたら何が起きるのかを、俺はまだ知らない。知らないまま、俺たちはその手のひらの真ん中へ向かって歩いている。

「ミナトさん」

「はい」

「上から描いた地図を捨ててくれ」

 ミナトが図面を見た。三年ぶん、大手のクランで描き続けた線が並んでいる。しばらく見て、それから丸めて背嚢に押し込んだ。

「零ちゃん。下から見た形を教えてください」

「ここ、まがってる」

 零が指を伸ばす。伸ばした指が岩の表面を撫でて、少しめり込んだ。

「ここ、おりてる。ここ、まがってから、おりてる。ふたつまがったら、つく」

「二回曲がったら八十階層ですか」

「うん」

 ミナトが新しい紙を出した。線を引く手がさっきまでの半分の速さで、倍の確かさで動いていく。

「……三年、上から見た図しか描いてませんでした」

「そのぶん、下から見る仕事が残ってる」

「二回目ですよ、それ」

「二回言うことにしてる」

 担いできたヴェルドの中継機から、詩帆の声が戻ってきた。

「深山さん。聞こえますか」

「聞こえる」

「そちらの機材、こちらから中身が読めます。ログ、工程表、指示履歴。全部残っています」

「証拠を残さない男の機材が証拠まみれか」

「本人は残していません。残したのは現場です」

 詩帆が一拍置いた。

「読み上げます。八十階層特別番組、進行表」

【二二時〇〇分 到達】

【二二時四〇分 補給断絶・演出】

【二三時一〇分 孤立確定】

【二三時四〇分 救出】

「時間が刻んである」

「はい。ここまでは通常の番組進行です。問題はこの行です」

【二三時四〇分 救出/要員:空欄】

 通路の音が消えた。発電機も、足音も、呼吸も、全部その一行の下に落ちた。

「空欄です」詩帆の声に温度がない。「他の全ての行に担当部署と人員番号が振られています。この行だけ、最初から空欄で作成されています。更新履歴も同じです。一度も埋められていません」

「埋める予定がなかったのか」

「逆です」

 詩帆が言った。

「埋まる予定で作られています。誰かが勝手に埋めにくることを、前提に組まれた進行表です」

 俺は黒い箱を見た。

 あの男は命令していない。人を送っていない。名前を書いていない。ただ、表に穴を空けた。空けておけば、そこに人間が落ちてくることを知っていた。二十年、餌を撒き続けてきた人間の手つきだ。

 三日前、俺も紙に空欄を二行残した。埋まる予定があるから空けておいた。同じ形の穴を、まったく違う理由で空ける人間が世の中にはいる。俺の空欄には名前が入る。あの男の空欄に入るのは名前ではない。誰かの寿命だ。

「深山さん。判断を仰ぎます」

「何を」

「引き返す選択肢が現時点で有効です。あなたが行かなければ、あの行は永久に空欄のまま残ります。火口の設計は未遂で終わります」

「その場合、レイジは」

「二三時四〇分に、誰も来ません」

 柚葉が俺の右手首を取った。歩きながら十秒。今日六度目。

「四層目、剥がれています。触れば、たぶん」

「たぶん、じゃなくて」

「終わります」

 柚葉が手を離し、離してから、離した手をもう一度俺の袖に添えた。

「それでも行くと言うなら、わたし、隣で数えます」

 島さんが黙って背嚢を担ぎ直した。ミナトが紙をポケットに畳んだ。リクトとダイゴが同時に頷いた。誰も反対しなかった。反対しないことが返事だった。

「詩帆」

「はい」

「表の穴は埋める。ただし、あいつの表に載る形では埋めない」

「意味を測りかねます」

「あの男の番組の救出要員じゃない。灯火の指名依頼として下りる。依頼主は管理局。単価十五万。事故率ゼロ」

 三秒ほど何も返ってこなかった。箱の中で回線の雑音だけが鳴り、その裏側で、詩帆が端末を叩く音が細かく続いている。

「……記録します」

 詩帆の声がわずかに速くなった。

「二三時四〇分、クラン『灯火』、深層潜行従事登録第一号案件。着手」

 箱の向こうで、地上のコメントが流れる音がした。

『は?』

『今の聞いた? 依頼として行くって言った』

『救われる側の番組に出ないための言い換えだろ これ』

『こいつら仕事として人助けしてるんだよな 三百三十五回目の』

『姫川カレン、三時間で八十九万人運んできてるんだが』

『救助配信の同接、レイジのやつ抜いたぞ』

「深山さん。救助配信、五十二万。レイジさんの配信、四十九万」

「上げなくていい。落とさなければいい」

「もう上がっています」

 最後の休憩を四分で切り上げた。

「段取りを一度だけ言う」

 全員が顔を上げた。

「広間に入ったら、俺が視る。色と本数を口で言う。リクトとダイゴは俺の声だけを聞け。目で確かめようとするな。確かめられないものを確かめようとした時間がそのまま人の残り時間から引かれる」

「はい」

「島さんは天井と足元。ミナトさんは退路。二回曲がって戻る道を、頭の中で常に持っていてくれ」

「持ってます。もう三通り」

「柚葉は俺じゃなくレイジを診ろ」

「順番を守ります。倒れた人が先です」

 柚葉が答えてから、少しだけ付け足した。

「あなたが倒れたら、そのときは順番が来ます」

「縁起でもない」

「事実の確認です」

「零」

「なに」

「糸が視えたら教えてくれ。俺より細かく読めるのはお前だけだ」

 零が頷いた。頷いてから、自分の指を一度握って開いた。握れたのかどうか、光の通り方では判断がつかない。

「よみます。まだ、よめる」

「言った通りに動け。以上だ」

 七十九階層の坂で、初めて音が届いた。

 画面越しではない、生の音。金属が岩を叩く音。遠い。ひどく遅い。連続していたはずの打撃の間隔が明らかに開いている。

 その音の合間に、笑い声が混じった。

 三年、毎日聞いていた声だ。

「先頭は……譲らねえっての」

 誰にも届かない声で、あいつが言っていた。カメラに向かって喋っているつもりで、届く先には四十九万人がいて、そのうちの誰も手を伸ばせない場所にいる。

「島さん、天井」

「乾いてます。ここは崩れません。崩れる音じゃない」

「行くぞ」

 八十階層の入口は思っていたより広い。

 高い天井。中央に円形の広間。奥に、割れた盾の破片と、動いている影がひとつ。

 俺は足を止めた。

 広間の手前の床に、旗が立っている。

 人のいない床に六本。にじみではない。開きかけた本物が六つの位置に等間隔で並んでいる。

 白、灰、白、灰、灰。

 五本の色を数えて、俺は六本目を見た。

 六本目の位置に色がない。あるはずの場所に、何もない。

「零」

「なに」

「六本目の色は」

 零が答えなかった。

 俺は後ろを振り返った。柚葉、島さん、ミナト、リクト、ダイゴ。五人。零の頭上は昔から読めない。読めないぶん、零はこの数に入らない。

 五本の旗と、五人。

 六本目の位置に立てる人間がこの場に一人しかいない。

 自分の旗だけは視えない。五年前からずっと、それだけが俺のルールの穴になっている。人の頭上を数えて生きてきた男に、この世でただ一箇所だけ、絶対に数えられない場所がある。

 俺は六本目の位置へ歩いた。歩いて、そこに立った。

 顔を上げても、四十センチ上には天井しかない。

「零」

 もう一度呼んだ。

 零が顔を上げた。上げて、俺の頭の上ではなく、俺の顔を見た。

 見て、口を閉じたまま、俺の袖を掴んだ。掴もうとして、指が布をすり抜けた。

 広間の奥で、金属の音が止まった。

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