願いの叶う国『メルス』
第1話「願いが叶う国という噂の国だ」
街道は、積み上げられた丸太と土嚢によって塞がれていた。
その前には槍を持った兵士が六人ほど立ち、行き交う旅人を追い返している。背後の丘には物見櫓が組まれ、遠くの空には灰色の煙が幾筋も昇っていた。
エドガーは荷馬車を止め、御者台から身を乗り出した。
「何かあったのか?」
「この先は通行止めだ」
兵士の一人が、疲れ切った声で答える。
「西の国が国境を越えた。街道沿いの村でも戦闘が始まっている」
「商人も通れないのか?」
「死体になって通りたいなら、好きにしろ」
「随分と親切な案内だな!」
エドガーは肩をすくめ、荷台に置いていた地図を広げた。
フレイアはその隣で、兵士の向こう側を見つめている。
街道は緩やかな丘の先まで続いており、そのさらに奥から、地鳴りのような微かな振動と遠くの爆発音が伝わってきていた。
「迂回路はあるのか?」
「南へ戻って山道を使え。十日は余計に掛かるが、今のところ戦場にはなっていない」
「今のところ、ねえ」
「嫌なら東へ行け」
兵士は興味を失ったように、次の旅人へ顔を向けた。
エドガーは手綱を引き、荷馬車を街道の脇へ寄せる。
「十日か。食料は足りるが、馬が先に嫌になるな」
「東へ行けばよいだろ」
フレイアがそっけなく言った。
「聞いてなかったのか?」
「道はあるのであろう」
「ああ、あるな。しゃーない、気の向くまま、風の吹くままだ!」
エドガーは地図の東側へ目を走らせる。
山と森に挟まれた小さな領域。その国境線の内側に、小さな文字で国名が記されていた。
「"メルス"……!?」
「知っているのか」
「名前だけは……!」
エドガーは指先で地図を叩いた。
「願いが叶うと噂されている国だ。どこかで聞いたことがある」
「願い?」
「ああ。女神像の下から、願いを叶える泉が湧いたとか」
フレイアは露骨に眉をひそめた。
「ハッ!くだらぬ」
「俺に言うな。噂だよ」
エドガーは地図を畳んだ。
「東へ行くか。山道よりは面白そうだ」
「初めからそうしろ」
荷馬車は街道を外れ、草に埋もれた細い道へと入っていった。
日が沈む頃、二人は小さな森の外れで野営することにした。
エドガーが馬へ水を与え、フレイアは焚き火の前で干し肉を炙っている。
その干し肉は、エドガーが翌朝のために取っておいたものだった。
「それ、俺の分じゃなかったか?」
「名前は書かれておらぬ」
「おい!食料袋を分けた意味がないだろ」
「我の袋にはもうないからだ!」
「だからって、俺の袋から取るな!」
「細かい男だな……マニュアルで読んだぞ。細かい男はモテないとな」
「だとしたらそのマニュアルはゴミだゴミ!燃やした方が少しは役に立つだろうよ」
フレイアは答えず、焼けた干し肉を口へ運んだ。
エドガーは諦めたようにため息をつき、焚き火の反対側へ腰を下ろす。
昼間まで見えていた戦場の煙は木々に隠れ、代わりに雲一つない夜空が広がっていた。人の住む街から離れているため、空の端まで無数の星が見える。
エドガーは薪を一本、焚き火へ放り込んだ。
「……そういや、知ってるか?」
「なんだ急に?何の話か先に言え」
「流れ星に願い事をすると、願いが叶うらしいぞ」
フレイアは空を見上げることすらしなかった。
「愚かだな。そんなわけがないだろうが」
「ははっ!そうだな!」
エドガーは笑う。
「どこかの愚か者が、星に希望を託したんだろうな」
「星は、地上の人間など見ておらぬ」
「夢がないな」
「夢で腹は満たされぬ」
「夢の話をしながら、俺の干し肉を食う奴に言われたくない」
フレイアは最後の一切れを口に入れた。
「ならば貴様は、何を願う」
「俺か?」
「ああ」
エドガーは少し考え、焚き火へ目を落とした。
「"商売繁盛"か"世界平和"か……」
「つまらん」
「現実的と言えよ」
「星へ願う時点で現実的ではない。自身で叶えるべきだ」
「それもそうだ。間違ってない」
「もっと大きな願いはないのか。そうだな……世界一美味い食い物を食うとか」
「はははっ!馬鹿だな!一番美味しいものは人それぞれだっつーの!」
エドガーはひとしきり笑って、肩をすくめる。
フレイアは空を見上げた。
星々は静かに瞬いている。人間の願いにも、地上の戦争にも関心を持たず、遥か昔からそこにある。
薪の弾ける音だけが、しばらく静かに続いた。
やがて、夜空の端を白い光が横切った。
一瞬だった。星が尾を引き、森の向こうへ落ちていく。
「あ、流れ星だ!」
エドガーが言う。
「遅いぞ。もう消えた」
「分かってるよ。いちいちうるせー奴だな」
「願わなかったのか」
「三十秒くらい待ってくれれば、考えられたんだがな」
「願いを叶えるには、随分と不親切な星だ」
「願いってのは、迷っているうちは叶わないのかもしれないな」
フレイアは鼻を鳴らした。
「もっともらしく言っているが、何の根拠もないな」
「雰囲気だよ、雰囲気」
エドガーは毛布を肩へ掛け、地面に横になる。
「明日は"願いが叶う国"だ。何か欲しいものを考えておけよ?食い物以外でな」
「そうだな。貴様の頭が良くなるとかな」
「うるせーな!"最果ての国"のこととか、色々あるだろ!」
「先ほども言ったが、願いは自身で叶えるものだ。我は自分の目と足で確かめる」
「そーかい。んじゃ、俺は寝る」
フレイアは返事をせず、焚き火へ視線を戻した。
◆
翌朝、二人は東へ向けて出発した。
進むほどに道は荒れ、倒れた石標や石畳の隙間からは雑草が我が物顔で伸びている。
道沿いに点在する宿場の跡は、屋根が崩れ扉も窓もない。
魔物の襲撃ではなく、ただ長い時間放置されて朽ちたような静けさがあった。
「本当にこの先に国があるのか……?」
御者台のエドガーが、地図と目の前の廃道を見比べる。
「道は続いておるが?」
「廃道……のようだけどな」
昼を過ぎた頃、森が途切れ、かつて広大な農地だった場所に出た。
雑草に覆われた畑、干上がった水路、腐りかけた柵が風に揺れている。
「戦争で滅びたようには見えぬな」
フレイアが周囲を見渡す。焼け跡も争った形跡もないのだ。
さらに丘を一つ越えると、ようやく国の境界を示す古い石壁が見えた。
開け放たれた正門の扉は片方が外れ、地面に倒れ伏している。
門の上部に掲げられた石板には、辛うじて文字が読み取れた。
『願いが叶う国――メルス』
だが、その文字の一部は硬いもので執拗に叩き壊されていた。
「着いた……が」
エドガーが荷馬車を止める。
門の向こうに広がっていたのは、見渡す限りの廃墟だった。
崩れた家々。割れた石畳。
広場の中央には巨大な神殿跡が聳え、その手前には錆びた鉄柵に囲まれた女神像が立っていた。
胸元で両手を組んだ女神の足元――円形の泉は完全に干上がり、水盤の底には白く乾いた亀裂が幾重にも走っている。
「願いが叶う泉どころか、国ごと終わってやがる」
エドガーの呟きに、フレイアは無言で荷馬車から降りた。
人の気配も、鳥の鳴き声すらしない。
だがその時、女神像の奥から、瓦礫を踏みしめる微かな足音が響いた。
建物の陰から姿を現したのは、一人の男だった。
伸び放題の髪に、擦り切れた衣服。
腰には、かつてこの国の兵士が使っていたであろう剣を下げている。
痩せこけた体躯に反して、その眼光だけが不自然なほど強く澄んでいた。
正気を手放した者特有の、不気味な静けさを湛えている。
男は声を上げることもなく、信じられないものを見るように二人をしばらく見つめ、やがて乾いた唇を動かした。
「……旅人か?」
「ああ。この国で何があったか教えてくれないか」
「ついてこい」
短く告げた男の背中を追い、二人は広場の中央へと歩みを進めた。
瓦礫を踏む硬い靴音だけが、滅びた国に虚しく響く。
改めて見る女神像は、かつて純白だったはずの石肌が幾重もの煤にまみれていた。
慈愛に満ちていたはずの顔には、刃物の傷や投石による欠損が生々しく刻まれている。
男はしゃがみ込んでいびつな小石を拾うと、親指で弾いた。
放物線を描いた石は女神の眉間に命中し、鼓膜を打つ乾いた音が静寂の中に響き渡る。
「随分と嫌われている女神ようだな」
「昔は、狂おしいほど愛されていたさ」
ひび割れた水盤の縁に腰を下ろした。
「喉が渇ききった時も、胃袋が引き千切れそうな時も、隣人の喉笛を掻き切りたいほど憎んだ時も――国中の人間が、この薄汚れた石塊にすがりついて祈っていたんだ」
「願いは叶ったのか?」
エドガーが水盤の底を覗き込む。
乾いた泥の亀裂には、緑青の浮いた硬貨や歪んだ宝石付きの指輪が散らばっていた。
男は水盤へ視線を落としたまま、短く息を吐いた。
「ああ、叶った」
そして、灰色の空を仰ぐように女神像を見上げた。
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