第21話:記録が閉じないなら、私が閉じる

 王都加護管理室の祭壇で、端末の歪みがかつてない速度で拡大していた。

 控えていた部下が慌てた声を上げる。


「主任官自ら旧記録庫へ向かわれるのですか」


 エルヴィス・ラウゼンは、手元の台帳を静かに閉じ、冷徹に席を立った。


「未承認接続の発生源を、現場で閉じる」


 彼が動くと同時に、王都側のログが淡々と駆動を始めた。


管理局第一記録主任官エルヴィス・ラウゼン。

旧加護記録庫、直接介入。

権限:記録閉鎖/分類修正/補助部位再登録。


 旧加護記録庫の最外周。

 冷たい石壁の表面に、音もなく巨大な黒い扉が染み出すように現れた。そこから一人の男が静かに踏み込んでくる。

 リィナは直感した。これまでの台帳越しや投影越しの気配ではない。これは、制度そのものを体現し、台帳を閉じる人間そのものだった。


 ヴェルナが即座に一歩前に出て、鋭い魔力を身にまとった。


「来ましたか」


 エルヴィスは眉一つ動かさず、旧記録庫の空間をただの案件数として一瞥した。


「未承認接続、二件。旧補助記録保全、三件。補助候補自律干渉、一件。十分です」


「名前です」


 リィナはエルヴィスを真っ直ぐに見据えた。けれど、彼の瞳には一切の温度がなかった。


「分類名で十分です」


 エルヴィスは自らの衣服の奥から、不気味に黒く光る小さな「分類札」を何枚も取り出し、虚空へと淡々と貼り付けた。

 それは魔法による攻撃ではない。人間を機能へと引き戻すための、冷徹な分類処理だった。札の表面に、次々と黒いインクの文字が浮き上がる。


テレーズ:旧補助記録。

イリーネ:旧補助記録。

ノエラ:旧補助記録。

フィア:処理対象。

リィナ・エルシェイド:第三十一代補助部位。

ヴェルナ・ノクティス:封鎖対象。


 札が貼られると同時に、リィナがこれまで必死に保全してきたテレーズたちの名前の光が、再び強引に部品名へと引き戻されようと歪み始めた。

 リィナは激しい反発の意志とともに、その冷酷な文字を言葉で押し返した。


「違います。テレーズは、まだ走れる子から先にと言った人です。イリーネは、名前まで祈りにしないでと言った人です。ノエラは、誰かの傷を持っていった人です。フィアは、自分の道を名前で呼んだ人です」


「個別事情は記録効率を下げる」


 エルヴィスのペンの音が、虚空に響くように冷たく刻まれる。


「私は奪っていない。分類しているだけだ。制度は、例外を抱えないためにある」


「例外ではありません。人です」


 リィナのシンプルな拒絶の言葉を、エルヴィスはただのエラーノイズとして撥ね退けた。


 同時に、旧補助候補訓練所跡。

 外部端末を必死に支えていたフィアの首輪に、エルヴィスの権限が直接干渉を始めた。

 首輪の表面に、まったく同じ黒い分類札が浮かび上がる。


フィア:処理対象。

命令経路、再掌握。

個人経路、削除。


 「――う、あ!」


 フィアが激痛でその場に崩れ落ちた。自らの名前で呼んだはずの「フィアの道」が、王国の巨大な権限によって再び消されそうになっていく。

 ミリアがその身体を必死に支え、声を震わせた。


「名前を呼んでください。あなたの道です!」


「フィアの道……っ」


 フィアは声を絞り出そうとした。けれど、今度はエルヴィス本人の持つ処理権限が強すぎて、名前の響きだけではその冷酷な術式を押し返せない。


 旧記録庫の奥で、リィナの目にその凄惨な因果の摩擦が映り込んだ。

 それはこれまでの死に向かう「死因線」ではない。エルヴィスの手元から伸びるその黒い糸は、生きている人間を無理やり名前から役割へと叩き落とすための「分類線」だった。


「これは死因線じゃない。人を名前から役割へ落とす線です」


 ヴェルナがそのリィナの視線に静かに応じた。


「分類線」


「なら、切るものは分かります」


 リィナはエルヴィスから伸びる黒い分類線を、乱暴に引きちぎるのではなく、壊さずに通す、という感覚のまま名前の側からほどくように指先を動かした。


 それを見たエルヴィスが、即座に次の一手としてリィナ自身の胸元へ黒い札を貼り付けた。


リィナ・エルシェイド:第三十一代補助部位。


 リィナの身体が一瞬、王国の巨大な台帳の底へと強烈に引きずり戻されそうになる。

 その瞬間、ヴェルナが横からリィナの痛む手をきつく握り締めた。


「リィナ」


 魔王は、ただその名前だけを呼んだ。百回のループの記憶の中で、彼女が一度も変えずに呼び続けた、たった一つの音だった。


「はい」


「あなたは、部位ではありません」


「知っています。あなたが百回、そう言ってくれましたから」


 二人の手が重なった瞬間、リィナの指先から、フィアへと向かっていた黒い分類線へと、凍りついた分類をほどくような因果の熱が真っ直ぐに伝わっていった。

 旧記録庫側からリィナが分類線をほどき、訓練所跡側からはフィアが「私はフィアです」ともう一度強く自らを肯定する。ミリアが、ガルドが、レオンがそれぞれの場所でその接続の端を必死に支えきった。

 因果が激しく軋み、エルヴィスが貼り付けたフィアの分類札の一枚だけが、パチパチと火花を散らしてその文面を反転させた。


フィア。

本人名保持、継続。

処理対象分類、解除不能。


 完全な解放ではない。処理対象という王国の分類は残ったままだが、彼女から「フィア」という名前だけは、決して消えずにそこに残り続けた。


 エルヴィスは初めて、手元のペンを止め、リィナの姿を少しだけ見つめた。

 そこには怒りも驚きもない。ただ、目の前の対象に対する事務的な危険評価が、一段階上へと更新されただけだった。


「第三十一代補助部位ではない」


 エルヴィスは、黒い台帳のページを静かにめくった。次のインクを走らせ、台帳の文字を完全に書き換える。


「記録汚染の中核です」


第三十一代補助部位リィナ・エルシェイド。

分類修正。

記録汚染中核。

即時閉鎖対象。


 エルヴィスは、初めてリィナをただの部品ではないものとして見ていた。

 ただし、それは一人の人間としてではなかった。

 閉じるべき中核としてだった。

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