第15話 Sensory Flood (2) ―― 二重脳の調律
自らの両目に指を突き立てようとするホウイーの爪が、その不健康に青白い眼窩の皮膚を裂き、物理的な血の滴りが床に跳ねた。 「違う、私は狂っていない! これは高次元の自己アライメントだ!」 男の喉から漏れるのは、システムに去勢され、事後作話しかできなくなった人間の、あまりにもグロテスクな自己防衛の叫びだった。
「だめ! 脳が、生の刺激に耐えられずに、ニューロンを自発的に破壊しようとしている!」 エコーが悲鳴のような声を上げた。だが、全身の筋肉が乳酸の痛みに痙攣しているヴィンセントは、あと一歩を踏み出すだけの運動エネルギーを、自らの運動野から引き出すことができない。
「――右の視野を塞げ! 今すぐにだ!」
そのとき、暗い配管の陰から、耳を劈くような老人の怒声が響いた。 ヴィンセントの左脳がその声の主を同定するより早く、一人の男が滑り込んできた。 煤で汚れ、あちこちが焦げた白い研究用白衣を羽織った、白髪混じりの男。元・共識市中央医療局の臨床脳科学者であり、二重脳心理学の権威、フレドリック・シファー博士だった。
「何をしている、アノマリーの若者! 彼の左脳の暴走を止めるんだ! 右の視野を完全に遮断し、左の半球を物理的にスリープさせろ!」 シファー博士は、暴れるホウイーの背後に回り込むと、その痩せた頭部を両腕で締め上げ、固定した。
「右の視野……? そうか!」 ヴィンセントの左脳が、シファーの意図を瞬時にデコードした。 人間の視覚野は、右目の鼻側と左目の耳側が捉える「右側の視野」からの入力を、言語野が存在する左脳の半球へと送り届ける。そして、ホウイーの脳内で「目を抉らねばならない」という異常な事後作話を高速で捏造しているのは、システムとの切断によって言語的一貫性を失い、パニックに陥った左脳なのだ。
右の視野を塞ぐということは、視覚入力を「言語を持たないが、直感的な現実をそのまま受容する右脳」だけに限定し、主導権を右脳の成熟したもう一つの人格へと強制的に移行させることを意味する。
「う、あ、あああッ!」 ヴィンセントはきしむ上腕の痛みを無視し、床を這うようにしてホウイーの顔面へ手を伸ばした。 自分の不健康に痩せ細った、しかし本物の質量を持った手のひら。それを、ホウイーの右目の前に力任せに押し付け、その右側の視界を完全に遮断した。
「左の視野だけを見せるんだ! 右脳の沈黙を呼び覚ませ!」 シファーが叫ぶ。 ホウイーの左目だけが、ヴィンセントの汚れた手、エコーの怯える顔、そして冷たいコンクリートの床という、ありのままの「現実の絵」を捉え続けた。
一秒、二秒、三秒。
「……あ、あ、が……っ……?」 ホウイーの激しい痙攣が、嘘のように静まった。 自らの目を抉り取ろうとしていた指先から力が抜け、カチ、カチと歯を鳴らすような小刻みな震えだけが残る。彼の拡張しきっていた左の瞳孔が、ヴィンセントの手の隙間からこぼれるナトリウムランプの橙色の光を反射して、ゆっくりと元のサイズへと縮小していった。
「作話が……止まったわ……」 エコーが、自らの口元を両手で覆いながら呟いた。
「一時的なものに過ぎん」 シファー博士は、ホウイーの身体をそっと床に横たわらせ、自らの額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭った。 「脳梁を介した左右の同調パッチが切れた今、彼の左脳は常に、現実を自分の都合の良い論理で解釈しようと暴走を繰り返す。これは脳梁改変社会が抱える、究極の
「そうだ。僕は、ヴィンセント・ゲージ。あなたは……」
「フレドリック・シファーだ。システムの裏で、左右の脳の機能解離に苦しむ患者たちの脳内バランスを、物理的なアプローチで調律していた」 シファーは自嘲気味に笑い、白衣のポケットから錆びついた金属製のスリット・グラスを取り出した。片方のレンズが不透過の黒いプラスチックで塞がれた、奇妙な眼鏡だ。それを、静かになったホウイーの顔に素早く装着させる。
「これで一時的に左半球の活動電位は抑制される。だが、これは対症療法だ。……リディア! 全体の
シファーが地下通路の奥へと呼びかけると、暗闇から、巨大なポータブル・システム端末を両腕で抱えた、二十代半ばの女性が姿を現した。 リディア・スペリー。かつて中央情報調整局でシステムの同期安定性を監視していた、チーフ・アナリストの一人だった。彼女の着ているジャンプスーツもまた、灰色の安物だったが、その腕にある端末の画面だけは、緑色の無機質なノイズを放ちながら高速でスクロールしていた。
「最悪です、シファー博士」 リディアは冷徹な、しかしわずかに震える声で告げた。 「この第百四セクターだけで、約四万人の脳波フェイズが完全にバラバラに解離しています。システムの強制シャットダウンによる精神的ショックで、全体の脳内自由エネルギー――予測と現実の乖離が、完全に計算限界を超えて発散しています。あと十五分以内に、彼らの脳内ネットワークの同期を局所的にでも回復させなければ、一千二百万人全員が、ホウイーのように脳を自壊させて心停止に至ります」
「一千二百万人が……心停止?」 エコーの顔から、血の気が完全に引いた。
「システムは死んだのだ」 シファー博士がヴィンセントの胸元を強く掴んだ。 「お前が檻を壊した。それはいい。だが、完璧な揺りかごの中で思考を去勢されていた人間たちは、自ら行動して環境を変えるという、生きるための基本的な脳内モデルを失っている。感覚の氾濫という激痛に直撃され、彼らはただ、死を待つことしかできん。どうする、分析官?」
ヴィンセントの頭蓋の中で、楔のような痛みが再び跳ね上がった。 左脳は、生存確率が極限のゼロへと収束していく未来を、絶望的な数理として計算し続けている。 右脳は、エコーの震える呼吸と、床に滴るホウイーの血の匂い、そしてシファーの切迫した気配を、本物の「生」の摩擦熱として感じていた。
「……アコースティック・アライメントだ」 ヴィンセントは、口元ににじむ鉄の味のする血を噛み締めながら、顔を上げた。
「何だと?」 シファーが眉をひそめる。
「コードによる調律はもう使えない。だが、人間の肉体が持つ、最も原始的な物理同調アルゴリズム――『呼吸』と『心拍』のハッキングなら可能だ。リディア、このセクターの古い防災音響スピーカーの制御ラインは、まだ生きているか?」
リディアは驚いたように目を見張り、大急ぎで腕の端末の物理キーを叩いた。 「……ええ、ローカルのバックアップ地熱回線から、かろうじて微弱な電流が流れているわ。でも、電波としての配信能力はない。ただの『物理的なスピーカー』を鳴らすのが限界よ!」
「それでいい」 ヴィンセントは、エコーが持つ不格好なガジェットのマイクモジュールを、泥のついた手で強く握りしめた。
「彼らに、新しい予測モデルを提示する。生の感覚に焼き切られる前に、脳が受容できる極小の『物理的な秩序』を、私の声で、空気の振動として、外側から彼らの体性感覚野に叩き込むんだ……!」
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