第50話 会社に来なくていい
「明日から、調査が終わるまで自宅待機してください」
電話の声は事務的だった。
処分ではない。給与も支払われる。連絡可能な状態で待つ。
説明は理解できた。
彩花の耳には、「会社に来なくていい」だけが残った。
翌朝、六時二十分に目が覚める。
いつもの服を出し、化粧を始め、途中で止まった。
行く場所がない。
高校へ行けなくなった朝も、最初は制服へ着替えようとした。身体が動かず、昼になり、翌日も同じことを繰り返した。
「今とは違う」
声に出す。
今は正式な調査。自分は働いてきた。家から出ることもできる。
玄関へ立つ。
鍵へ手をかけたまま、三十分が過ぎた。
スマートフォンに仕事の通知は来ない。匿名アカウントは開けない。友人の結婚写真だけが表示され、自分だけが時間から外れた気がした。
昼、インターホンが鳴る。
ドアの前に紙袋が置かれていた。温かいスープとパン。短いメモ。
『食べられそうなら。返事はいらない』
まーくんの字だった。
誰が住所を教えたのかと思い、袋の下を見る。配送サービスの伝票があり、送り主はさくらカフェ。勝手に来たわけではないと分かる。
スープを温める。
一口だけ飲むつもりが、全部なくなった。
夕方、あかりから連絡が来る。
『イベントは保留です。中止も強行も、彩花さん一人の責任にはしません』
彩花は『私を外してください』と打つ。
送信前に、電話が鳴った。
「外すかどうかも、関係者で確認します」
あかりは先回りした。
「店を守りたいんです」
「私たちもです。だから、彩花さんが全部背負う案は却下です」
「総責任者みたいですね」
「客なんですけどね」
久しぶりに少し笑った。
夜、雫が動画の再生画面だけを送ってきた。第四話、停止中。
彩花が来るまで進めていない。
仕事へ行けない一日は終わった。
克服が消えたわけではない。そもそも、人生は証明書ではなかった。
彩花は明日のアラームを同じ時刻へ設定した。
会社へ行くためではない。
朝を朝として迎えるためだった。
翌朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。彩花は仕事着ではなく、柔らかい部屋着のままカーテンを開けた。会社へ行かなくても太陽は昇る。コーヒーを淹れ、調査担当から指定された資料を一つのフォルダへまとめる。待機は何もしないことではない。自分の生活を守りながら、必要な時に事実を渡す準備を始めた。
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