第12話 非公開動画
右手の黒い線は、洗っても落ちなかった。
石鹸でこすっても、アルコール入りのウェットティッシュで拭いても、皮膚の上に描かれた墨のような筋は薄くならない。火傷の痕にも見えるし、血管が黒く浮いたようにも見えるが、痛みはない。ただ、じっと見つめていると、手のひらの内側で何かがゆっくり燃えているような感覚だけが残った。
修司は洗面台の前で、自分の手を見下ろした。
夢ではなかった。
白峰の夢も、讃岐の海も、歪められた文も、前世らしき若い男の震える手も、ただの悪夢では済まない。少なくとも、この手の線は現実に残っている。
「……会社、行くか」
口に出してから、自分でもおかしくなった。日本最大級かもしれない怨霊と、ほとんど脅迫に近い契りを結んだ翌朝に考えることが、出社だった。
だが、無断欠勤するわけにもいかない。警察にスマホを任意提出しているせいで、会社にも三浦にも連絡を返せていない。昨日の事故物件の件も、寺尾から追加の確認が来る可能性があった。
修司は手のひらに絆創膏を貼ろうとして、すぐに諦めた。傷の位置が広すぎる。結局、コンビニで買った黒いサポーターを右手にはめ、いつものスーツに袖を通した。
玄関を出る直前、足元の影が自分より先に扉へ伸びた。
修司は動きを止める。
朝の廊下に、特別なものはない。隣の部屋の換気扇の音、下の階から聞こえるドアの開閉、どこかの部屋で鳴る目覚まし時計。どれも日常の音だった。
それでも、影だけが少し先に行こうとしている。
『怯えるな』
声がした。
耳ではない。頭の奥でもない。足元から背骨を伝ってくるような声だった。
修司は返事をしなかった。
寺尾が言っていた。呼びかけは線になる。なら、必要以上に会話しない方がいい。
そう思った途端、足元の影がわずかに歪んだ。笑われた気がして、修司は小さく舌打ちする。
「行ってきます」
誰もいない部屋にそう言って、修司は鍵を閉めた。
会社に着くと、三浦が真っ先に顔を上げた。
「佐伯さん」
声に、明らかな安堵が混じっていた。
修司は自分の席に鞄を置きながら、できるだけ普通の顔を作る。
「おはようございます。昨日、連絡返せなくてすみません」
「本当に大丈夫ですか? メッセージずっと未読のままだし、電話もつながらないし、さすがに心配しましたよ。変な場所に行ってませんよねって送ったの、見てないんですか」
「スマホ、ちょっと警察に預けてて」
三浦の表情が固まった。
その反応は正しい。普通の会社員が朝の挨拶のついでに言う言葉ではない。
「警察、ですか」
「事件に巻き込まれたというか、正確には、巻き込まれかけたというか……俺が何かしたわけではないです。説明しにくいんですけど」
「説明しにくいことばっかり増えてません?」
三浦の声は責めるというより、心配が勝っていた。
修司は返す言葉に詰まる。
彼女にどこまで話すべきか、判断がつかない。事故物件で見つけたものについては、捜査に関わる以上、軽く話せることではなかった。まして白峰のことなど、言えるはずがない。
ただ、広告モニターに出た三浦の文面だけは気になっている。
「昨日のメッセージって、『帰ったら連絡ください』で合ってます?」
「合ってますけど……見てないんですよね?」
修司は息を止めた。
三浦の声に嘘はない。けれど、その言葉の周囲に、薄い黒い膜のようなものが揺れた。三浦から出ているものではなく、彼女の言葉を別の何かが後ろからなぞったような汚れだった。
修司の右手が、サポーターの下で熱を持つ。
『借りられたな』
白峰の声が落ちる。
修司は奥歯を噛み、心の中でも返事をしなかった。
「佐伯さん?」
「あ、いや。スマホが戻ったら連絡します。あと、変なアカウントから俺の名前を使ったDMとか来ても、開かないでください」
「それ、ますます説明が必要なやつじゃないですか」
「すみません。今は、開かないでほしいとしか言えないです」
三浦は納得していない顔だったが、無理に聞き出そうとはしなかった。その気遣いがありがたくて、同時に怖かった。自分に近づく人間ほど、線に触れてしまうのではないか。そんな考えが頭の隅に残る。
午前の業務は、思ったより普通に始まった。
普通にメールを開き、普通に社内システムを確認し、普通に昨日処理できなかった伝票を見る。だが、修司の目には、普通ではないものが見えていた。
久瀬運輸の臨時便。
外注費48万6000円。
別案件への付け替え。
大川課長の不正を見抜いた時に見えた黒い滲みは、まだ資料の中に残っていた。しかも、それは1つの伝票で終わっていない。似たような処理が、過去3か月分のファイルに細く伸びている。
最初は大川個人のごまかしだと思っていた。
だが、違う。
経理側の確認印がある。外注先からの請求書の番号にも、妙な飛びがある。全部が黒いわけではないが、同じ箇所だけが薄く汚れていた。
修司はマウスを握る手に力を入れた。
見なかったことにすれば楽だった。
大川は昨日から出社していない。小早川部長が動いているなら、自分がこれ以上首を突っ込まなくてもいい。会社の不正など、心霊配信や怨霊に比べれば現実的で、だからこそ面倒だった。
『曲げるのか』
白峰の声がした。
修司は画面から目を離さず、心の中でだけ言い返す。
曲げるんじゃない。順番を考えてるだけだ。
『同じだ』
右手が熱くなる。
修司は深く息を吸い、該当する伝票番号と請求書番号だけをメモにまとめた。感情で騒げば、今度こそ自分が危ない。だが、見えてしまったものをなかったことにすれば、夢の中で見た若い男と同じになる。
昼前、小早川部長に呼ばれた。
会議室に入ると、小早川は疲れた顔でノートパソコンを閉じた。大川の姿はない。
「佐伯君。昨日の件だが、君が指摘した臨時便の処理は、こちらでも確認している。大川には当面、直接の処理から外れてもらうことになった」
「そうですか」
「ただ、君にも聞いておきたい。あれは、たまたま気づいたのか」
小早川の声は穏やかだった。
しかし、その言葉の端に、薄い黒が滲んでいる。嘘というほどではない。警戒、保身、組織の都合。そういうものが混ざった色だった。
「たまたまではないです。数字が合わなかったので見ました」
「以前から気になっていた?」
「昨日、はっきりしました。ただ、似た処理が他にもあります」
修司はメモを差し出した。
小早川の目が細くなる。
「君、これをどこまで見た」
「社内で見られる範囲だけです。外部に出すつもりはありません。ただ、処理ミスで片づけるには無理があります」
会議室の空気が重くなった。
小早川はメモを見つめ、しばらく黙っていた。その沈黙に、修司は白峰の気配を感じた。怨霊は笑っていない。ただ、じっと見ている。
権のために真を曲げる者を許すな。
夢の中で刻まれた言葉が、手のひらの黒い線と一緒に熱を持つ。
やがて小早川は、ゆっくり息を吐いた。
「わかった。これは私が預かる。君は、この件を社内で不用意に話さないように」
「隠すためですか」
自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。
小早川が顔を上げる。
「違う。調べるためだ。少なくとも今は、そう受け取ってくれ」
その言葉に、黒い滲みはなかった。
修司は小さく頷いた。
「わかりました」
会議室を出た時、右手の熱は少しだけ引いていた。
昼休み、修司は会社近くの公衆電話から寺尾に電話をかけた。昨日渡された名刺が財布に入っていたことを思い出したのだ。
呼び出し音は2回で切れた。
『寺尾です』
「佐伯です。昨日はありがとうございました。スマホの件で」
『ちょうど連絡しようと思っていました。勤務先に電話を入れるのは避けたかったので、助かります』
その言い方に、修司は少しだけ安心した。寺尾は現実側の人間だ。少なくとも、手続きや線引きを無視して踏み込んでくるタイプではない。
「スマホは、まだ預けたままですか」
『任意提出としてお預かりした分の確認と複製は進んでいます。夕方以降なら返却できますが、いくつか確認させてください。昨日の物件の件は、配信やSNSでは出していませんね』
「出してません。スマホもないですし、パソコンも開いてません」
『それでいい。白峰の件についても、場所と名前を出すのは避けてください。警察として命令できる話ではありませんが、あなた自身と周囲の安全に関わります』
「三浦さんのメッセージが、昨日、駅の広告モニターに出ました」
電話の向こうで、寺尾が黙った。
短い沈黙だったが、重かった。
『文面は?』
「『帰ったら連絡ください』です。本人が送った本物のメッセージでした。でも俺は、スマホを預けていて見ていません」
『その方は無事ですか』
「今朝、会社で会いました。本人は普通です。ただ、言葉の周りに黒いものが見えました。本人から出ている感じではなくて、文面だけを何かに使われたような」
『他人の言葉を足場にした可能性があります。彼女には、あなた名義の不審な連絡を開かないよう伝えてください。詳しい説明はしなくていい。巻き込むほど線が増えます』
「もう、少し巻き込んでますよね」
言ってから、後悔した。
寺尾は否定しなかった。
『だからこそ、増やさないことです。それと、昨夜の9秒ファイルは絶対に1人で開かないでください』
「スマホが戻ったら、見えるんですか」
『見えると思います。ただ、あれは通常の動画ファイルとして扱わない方がいい。こちらで条件を整えます』
条件。
寺尾がその言葉を使う時、現実の捜査と怪異の境目が少し曖昧になる。
「寺尾さん。あなたは何者なんですか」
『刑事です』
「それだけじゃないですよね」
『今は、それだけで通します。あなたも、今は自分を配信者で会社員だと思っていてください。怨霊憑きだと認めるのは簡単ですが、認めすぎると戻る場所を失います』
修司は公衆電話のガラスに映る自分を見た。
右手のサポーター。少し濃く見える影。目の下の隈。
どこにでもいる会社員には、もう見えないかもしれない。
『夕方、署に来られますか』
「行きます」
『では、その時にスマホを返却します。もう1つ、あなたのチャンネルに関係することで確認したいことがあります』
「チャンネル?」
『こちらで話します』
電話はそこで切れた。
午後の仕事は、午前より長く感じた。
スマホがないせいで通知に振り回されないはずなのに、逆に通知がないことを何度も意識してしまう。チャンネルがどうなっているのか、登録者が増えているのか、白峰へ行くなという警告は届いているのか。気にしないようにするほど、頭の中で数字が勝手に動いた。
三浦は、時々こちらを見ていた。
修司はそのたびに、できるだけ普通に振る舞った。資料を直し、電話を取り、社内メールを返す。そうしている間だけ、自分がまだ社会の中にいる気がした。
定時を少し過ぎたところで、修司は小早川に用事があると告げて会社を出た。
警察署へ向かう電車の窓に、夜の街が流れていく。
窓ガラスに映る自分の影が、時々こちらを見ているように感じた。修司はそれを見ないようにしながら、右手を握り込む。
署に着くと、寺尾は昨日と同じように淡々と現れた。小さな面談室に通され、机の上に透明な袋に入ったスマホが置かれる。
「お返しします。ただし、確認事項があります」
寺尾は袋を開けずに言った。
「端末は、昨夜からこちらの保管手順に従って管理していました。あなたが操作できる状態にはありませんでしたし、少なくとも端末から投稿された形跡は確認できていません」
「投稿?」
「ええ。あなたの同意を得た範囲で、端末内の動画データとアプリ通知を確認しました。チャンネルの管理画面に勝手に入ったわけではありません。ですが、動画アプリの通知欄に、見覚えのない表示が残っていました」
修司の喉が詰まった。
「俺は、何も投稿してません」
「それはわかっています。通知上の時刻は午前3時12分。端末はその時間、こちらで保管中でした。あなたのご自宅のパソコンから操作されたかどうかまでは、令状も同意もない状態では確認できません。ただ、少なくとも昨日の状況から見て、通常の投稿とは考えにくい」
「タイトルは」
聞きたくなかった。
それでも聞いた。
寺尾は透明な袋越しにスマホを見下ろし、低い声で答えた。
「『見つけてください』です」
面談室の蛍光灯が、わずかに揺れた。
修司の右手が熱くなる。
寺尾はスマホの袋を机の中央へ押し出した。
「この場で確認するかどうかは、あなたに選んでもらいます。ただし、開くなら1人ではない。ここで、こちらの記録を取りながら開く」
修司は答えられなかった。
画面はまだ消えている。
それなのに、黒いガラスの奥で、誰かがこちらを見ている気がした。
『暴け』
影の中で、白峰が囁いた。
修司は唇を噛み、スマホから目を逸らさなかった。
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