第7話『人魚の肉』
むかしむかし、山と海に囲まれた沿岸の大藩に老いた殿様がいました。
若くして藩主となった殿様は、多才に恵まれ、この世の栄華と贅沢をすべて楽しみ尽くした男でした。
しかし、そんな彼にもどうしても抗えないものがありました。
「老い」と「病」です。
寝たきりとなってしまった殿様の望みは、もはやただひとつ。
「不老不死」の四文字だけでした。
殿様は家臣たちに、世界中のどこかにあるという不死の妙薬を探し出すよう命じました。
家臣たちは血眼になって手を尽くしましたが、そのような都合のよい薬が見つかるはずもありません。
その間にも殿様の病状はみるみる悪化し、骨と皮ばかりに痩せ細っていきました。
焦燥に駆られた殿様は、狂ったように「死にたくない、死にたくない」と夜通し呻くようになりました。
そんなある日、激しい嵐が去った後の海で、漁師の網に奇妙なものが掛かりました。
「人魚が捕れた」
その噂を聞きつけた殿様は、漁師に大金を与え、すぐさまそれを城へと運ばせました。
しかし、城の奥の間に届けられた「人魚」を目にした家臣たちは、恐怖と嫌悪のあまり、その場に嘔吐しました。
古くから言い伝えられる、美しい女の半身と魚の尾をもつ姿とは、あまりにもかけ離れていたからです。
それは、ぬらぬらとした緑黒色の粘液に覆われた皮膚。ぶよぶよと膨らんだ平べったい頭部には、じっとこちらを睨む巨大な魚の眼球があり、耳の代わりにある不気味なエラが血を吐くように蠢いています。
大きく裂けた口にはヤスリのような鋭い歯がびっしりと並び、手足の先には水かきがついていましたが、その骨格はどこか「歪んだ人間」の形をしていました。
何より、そこから放たれる腐った死魚ような悪臭は、人の精神を狂わせるに十分でした。
しかし、死を恐れる殿様は意に介しませんでした。
「これを、出せ」
震える手で人魚の肉を切り取らせ、口に運んだのです。
ひと口食べると、殿様の土気色だった顔に、たちまち赤みが差しました。
ふた口食べると、これまで寝たきりだった殿様が、自らの足で立ち上がったのです。
殿様は歓喜し、毎日その肉を喰らいました。
生け簀に放たれた人魚は、肉を削がれても死ぬことなく、虚ろな眼で殿様を見つめ返していましたが、殿様は構わず貪り続けました。
やがて病は完全に癒え、皺は消え去り、容姿は精悍な若者のそれへと若返っていきました。しかし、家臣たちはその奇跡を、ただただ恐ろしく見つめることしかできませんでした。
なぜなら、若返った殿様からは、あの人魚と同じ悍ましい生臭さが漂い始めていたからです。
ある日、殿様の肉体に異変が起き始めました。
皮膚は徐々に緑黒色に変色して硬い鱗に覆われ、目は丸く突出し、指の間には奇妙な皮が張り出しました。
その姿は、あの忌まわしい人魚と瓜二つになっていったのです。
酷く霧の深い夜のことでした。
すっかり変貌し、人とも魚ともつかぬ怪物の姿となった殿様は、虚ろな目で遠い沖合を見つめながら、低く濁った声で呟きました。
「……海に、呼ばれている」
家臣たちが涙を流して止めるのも聞かず、殿様は濡れた足跡を残しながら、這うようにして城を抜け出しました。
そして、荒れ狂う漆黒の海へと静かに潜っていき、二度と戻ってくることはありませんでした。
それ以来、この地方の漁師たちの間ではこのような言い伝えが残されています。
「人でいたいのなら、人魚の肉は絶対に食べるな」
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