第4話 偽物の彼女
放課後になるまでの時間は、やけに長かった。
授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
理由は分かっていた。
赤凪さんだ。
昼休みに「放課後、ちょっと付き合って」と言われてから、ずっと落ち着かなかった。
俺がついた「好きな子ができた」という嘘を掘り返されるのか。
どれにしても面倒なことになる気がした。
隣の席では、千一が授業中にもかかわらずノートの端に妙な漫画を描いていた。
金髪の宇宙人が、なぜか制服を着た女子に追いかけられている。
たぶん俺をからかっているつもりなのだろう。
少し腹が立ったので、消しゴムの欠片を千一の机に投げる。
千一はこっちを見て、にやっと笑った。
やがて最後の授業が終わり、教室の空気が緩んだ。
帰り支度を始める生徒。部活に向かう生徒。塾の予定を確認している生徒。いつもの白嶺の放課後だった。
「湊、今日どうすんの?」
千一が鞄を肩にかけながら聞いてきた。
「どうって」
「赤凪さんに呼び出されてんだろ。いやー、親友としては同行したい気持ちでいっぱいなんだけどな」
「来なくていい」
「ひどい!!俺という存在を切り捨てて美少女を選ぶのか!!」
「そういう話じゃない…」
「まあ、冗談は置いといて」
千一は少しだけ声を落とした。
「大丈夫なん?」
「何が」
「いや、何がって…なんか思うところがありそうな顔してるから」
こいつはこういう時、変に鋭い。
俺は少し迷ったあと、鞄のファスナーを閉めた。
「分からん」
「素直か」
「何されるか分からないから」
「赤凪さんに何される予定なんだよ」
「知らない。だから怖いんだよ」
千一は吹き出した。
その時、教室の入口の方から声がした。
「朝比奈くん」
振り返ると、赤凪さんが立っていた。
いつもの明るい笑顔。
でも、その笑顔が今日は少しだけ怖い。
「行こっか」
「……はい」
「おー、いってらー」
千一がひらひらと手を振ってくる。
「湊、骨は拾ってやるからな」
「不吉なこと言うな」
「青春の骨なら本望だろ」
「意味分からん」
俺はため息をつきながら、赤凪さんの後について教室を出た。
その時、視界の端に玲奈の姿が映った。
玲奈は席に座ったまま、鞄の中を整理していた。
こちらを見ていない。
見ていないはずなのに、その指先の動きだけが少し不自然に止まっていた。
俺は何も言わずに廊下へ出た。
赤凪さんは廊下を歩きながら、振り返らずに言った。
「朝比奈くんって、神崎くんと仲いいよねー」
「まあ……唯一の友達なので」
「ふーん?そうなんだ!確かに、神崎くんいい人だよね」
「見た目はあれですけどね」
「うん。見た目はだいぶあれ」
赤凪さんは小さく笑った。
連れてこられたのは、図書館棟の横にある小さな中庭だった。
白嶺学園は無駄に敷地が広い。
正門から見える中庭とは別に、校舎の裏側にも小さな休憩スペースがある。
昼休みには何人か生徒がいるけれど、放課後のこの時間はあまり人が来ない。
ベンチと植え込みと、古いレンガの道。
校舎の窓からは部活に向かう生徒の声が遠く聞こえた。
赤凪さんはベンチに腰掛けると、隣を軽く叩いた。
「座ろっか」
「……はい」
少し距離を空けて座る。
すると、赤凪さんがその距離を見て笑った。
「そんな警戒する?」
「警戒とかではないですけど」
「ふーん?」
「赤凪さん、何考えてるか分からないので」
「ひどいなー。私はただ、困ってる友達のために色々と動いてるだけだよ」
「そうは見えませんが」
「えー?ちゃんと朝比奈くんのために動いてるよー?」
やっぱりそうだ。
赤凪さんは足を軽く組み替え、俺を見る。
「で、好きな子って誰?」
いきなりだった。
「……またそれですか」
「うん。気になるし」
「言いたくないです」
「本当にいるのかな?いやー本当にいるならいいんだけどね?」
赤凪さんの声が少しだけ軽くなる。
俺は黙った。
赤凪さんは、そんな俺を見て楽しそうに目を細める。
「やっぱり嘘でしょ」
「……」
「朝比奈くん、分かりやすすぎるよ。今の顔、好きな子の話をしてる人の顔じゃないもん」
「じゃあどんな顔してますか?」
「追い詰められて苦し紛れに嘘ついた人の顔」
「……」
何も言い返せないのが悔しい。
赤凪さんは笑っていたが、責めている感じではなかった。
「まあ、気持ちは分かるよ。玲奈に真正面から理由説明するの、めんどくさそうだし」
「めんどくさいというか…」
「言いくるめられるのが怖い。それに本当に100悪いと思っているならとっくに縁を切ってるだろうし。負い目もしっかりあると」
全てを見透かしたようにそう言った。
玲奈は頭がいい。
言葉も強い。
俺が感情で何かを言っても、玲奈はたぶん理屈で返してくる。
しかもそれが正論っぽく聞こえて、最終的に俺が悪いみたいになる。
今まで何度もそうだった。
だから、理由を言えなかった。
赤凪さんは少しだけ真面目な顔になった。
「じゃあさ、私と付き合ってるってことにしたら?」
「……はい?」
聞き間違いかと思った。
赤凪さんは平然としていた。
「私と付き合ってるってことにしたら、玲奈も朝比奈くんの言うことを信じざるを得ないんじゃないかなって。そして、ちゃんと仕返しにもなるし、それでいて玲奈だって納得せざるを得ない。自分の友達ならね」
「いや、意味分からないですけど」
「分かるでしょ。好きな子ができた。しかもその相手と付き合ってる。なら、幼馴染とは距離を置きたい。理由としては分かりやすいし、真実味が増す。そうすれば玲奈の行動も変わるかもよ」
「…そんな嘘はつきたくないです」
「嫌だなー、最初に嘘ついたのは朝比奈くんだよ?」
「……」
「だったら、どうせなら使える物は使ったほうがいいと思うよ。いずれ見抜かれるから」
それは…よくない。
絶対によくない。
俺は首を振った。
「無理です。そんなのそもそも赤凪さんに得ないじゃないですか」
「得ならあるよ」
「何ですか」
赤凪さんは少しだけ間を置いた。
そして、不敵に笑った。
「そりゃー……朝比奈くんのことが好きだから?」
心臓が変な音を立てた。
「……は?」
「何その反応。ひどくない?」
「いや、だって……」
「冗談か本気か分かんなくて困ってる?」
「……」
「それでいいの。私のことは半信半疑でいい」
赤凪さんは楽しそうに笑う。
俺は頭を抱えたくなった。
この人は本当に読めない。
本当に、何か別の理由があるのか。
分からないから余計に怖い。
赤凪さんはベンチから立ち上がった。
夕方の光が彼女の髪に当たって、少し赤みがかって見えた。
「大丈夫。私、こういうの得意だから」
「何も大丈夫じゃないですけど」
「じゃあ明日からよろしくね、湊くん」
「急に名前で呼ばないでください」
「彼女設定だから」
「まだ承諾してないです」
「沈黙は肯定って言うし。それと、敬語はやめてよねー」
「いや、今、普通に否定してますけど」
「そー?じゃあ、私の一方的な片思いでいいけど?」
赤凪さんは軽く手を振って、校舎の方へ歩き出した。
俺はその背中を見ながら、深いため息をついた。
何か、とんでもなく面倒なことが始まった気がした。
◇翌朝
その予感は、教室に入って十秒で的中した。
「湊くん、おはよ」
教室に入った瞬間、赤凪さんが俺の前に来た。
昨日までは「朝比奈くん」だった。
なのに、今日は当たり前のように下の名前で呼ばれた。
教室の空気が、ほんの少し止まる。
「……お、おはようございます」
「敬語やめてって言ったじゃん」
「無理です」
「無理じゃないよ。ね、湊くん」
赤凪さんは笑顔のまま、俺の腕に軽く触れた。
その瞬間、後ろから千一の声が響いた。
「おいおいおいおいおい!何!?名字から名前呼びになってんじゃん!しかも距離近っ! え、何!? 昨日何があった!?」
「何もない」
「その何もないは無理あるだろ!」
千一は俺と赤凪さんを交互に見ている。
教室の何人かもこちらを見ていた。
特に女子の視線が痛い。
赤凪さんはまったく気にしていない様子で、俺の隣に立っている。
「昨日から、そう呼ぶことにしたんだよね?」
赤凪さんが俺を見上げるように言った。
俺は小声で返す。
「聞いてないです」
「今決めた」
「…」
「湊くん、顔に出てるよ」と、頬をツンツンしてくる。
千一が机を叩いて笑っている。
「湊、お前マジで何したんだよ。赤凪さんと急接近とか、白嶺の歴史動いたぞ」
「動いてない」
「いや動いた。少なくとも俺の中の日本史には載った」
「規模が分からん」
俺は自分の席に座ろうとした。
すると、赤凪さんは当然のように俺の机の横に立ったまま、髪を覗き込んでくる。
「寝癖ついてる」
「え」
「ここ」
そう言って、赤凪さんが俺の髪に触れた。
指先が軽く髪を撫でる。
近い。
近すぎる。
「ちょ、赤凪さん…//」
「紗理奈」
「……赤凪さん」
「紗理奈」
「…無理です」
「じゃあ、せめて紗理奈さん」
「…分かりました…紗理奈さん」
赤凪さんは楽しそうに笑う。
千一は完全に観客になっていた。
教室のざわつきが少しずつ広がっていく。
「え、赤凪さんと朝比奈?」
「距離近くない?」
「昨日から何かあったの?」
「湊くん呼び?」
聞こえている。
全部聞こえている。
胃が痛い。
ふと、窓際の前から二番目に目が向いた。
玲奈は席に座り、参考書を開いていた。
こちらを見ていない。
でも、ページはめくられていなかった。
シャーペンを持つ指が、少しだけ強く握られているように見えた。
「湊くん」
赤凪さんが俺の耳元に少しだけ顔を寄せる。
「玲奈、見てるよ」
「……やめてください」
「見てないふりしてるねー」
「そういうの、俺に実況しなくていいです」
「照れてる?」
「困ってるんです」
「知ってる」
「知っててやるの、悪質ですよね」
「うんー、そだねー」
赤凪さんは悪びれもなく頷いた。
チャイムが鳴った。
赤凪さんはようやく自分の席へ戻っていく。
俺は机に突っ伏したくなった。
千一が隣で小声で言う。
「湊」
「何」
「お前、今日死ぬかもしれんぞ」
「分かってる」
「いや、分かってない。これはラブコメ的に刺される流れだ」
「誰にだよ」
「知らん。読者に」
「メタいこと言うな」
ホームルームが始まる。
担任の話はいつも通りだった。
でも、教室の空気はいつも通りではなかった。
赤凪さんは席に座っている間も、時々こちらを見てにこっと笑う。そのたびに周囲が小さくざわつく。
玲奈は最後までこちらを見なかった。
ただ、その背中だけが妙に硬く見えた。
俺はその日、授業の内容どころか、自分が今どんな顔をしているのかすら分からなかった。
ただ一つだけ分かることがある。
赤凪紗理奈は、完全にやる気だった。
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