第23話 カニとバッタと帰る場所


 カニは、バッタの身体を静かに見つめた。


 草の上へ横たわるその身体は、浅く、小さく呼吸を繰り返している。


 カニは恐る恐る近寄り、一つひとつ傷を確かめ始めた。


 首筋。


 カマキリに噛まれた跡は残っている。しかし、深く食い破られた様子はない。


 胴にも鎌で押さえつけられた傷がある。それも表面が裂けている程度で、致命傷には見えなかった。


 少しだけ安堵し、今度は脚へ目を移す。


 折れ曲がった後ろ脚。


 以前は何度も痙攣していたその脚は、もう震えることすらなかった。


 力を失った細い脚が、棒切れのように身体へ垂れ下がっている。


 カニは目を伏せた。


 草むらへ飛び込んだ、あの一跳び。


 ほんの一瞬だけ、希望を抱いてしまった。


 この場所へ帰ってきたことで、少しだけ元気を取り戻したのではないか。


 故郷の風が。


 草の匂いが。


 この土地そのものが、バッタへ力を与えたのではないか、と。


 だが、違った。


 あれは元気になった証ではない。


 命が尽きる、その直前。


 残された力を振り絞って放った、最後の跳躍だったのだ。


 カニは、小さく息を吐く。


「……なあ。」


 バッタは、ゆっくりと顔を向けた。


「ここが、どこだか分かるか。」


 少しだけ間が空く。


 それから、バッタは静かに頷いた。


「……分かります。」


 その返事には迷いがなかった。


「草の匂いがします。」


 ゆっくりと息を吸う。


「その向こうからは……稲の香り。」


 風が吹いた。


 草が波のように揺れ、熟しかけた稲穂の甘い匂いが流れてくる。


「この風も。」


「懐かしい風です。」


 バッタは目を閉じたまま、小さく笑う。


「ここは……オレが生まれた場所です。」


 カニは黙って聞いていた。


 目は見えなくなっても。


 風も、匂いも。


 バッタは、この場所を忘れてはいなかった。


 カニも耳を澄ませる。


 さらさらと、水の流れる音が聞こえた。


「オレの故郷も、このすぐ近くだ。」


 自然と言葉が漏れる。


「水の音がする。」


「少し歩けば、きっと戻れる。」


 そこまで言って、言葉が途切れた。


「……せっかく帰って来られたのにな。」


 悔しさだけが胸へ込み上げる。


 あと少し早ければ。


 あと少しだけ身体が動いたなら。


 故郷の草を食み、風の中を跳ね回ることだってできたはずだった。


 バッタは静かに首を横へ振る。


「いいえ。」


 その声は驚くほど穏やかだった。


「オレ、自分の身体のことは分かっています。」


「もう、長くはありません。」


 問い掛けではなかった。


 恐れている様子もない。


 ただ、静かに受け入れているだけだった。


 カニは何も返せない。


 慰めの言葉も。


 励ましの言葉も。


 今はどちらも、空しく響くだけだと分かっていた。


 二匹の間へ、長い沈黙が流れる。


 草が揺れ、水が流れる。


 風だけが、静かに二匹の間を通り抜けていった。


 やがてカニは、意を決したように口を開く。


「……バッタ。」


「オレに。」


「何か、してやれることはあるか。」


 そう尋ねながら、胸の奥では別のことを恐れていた。


 ――何もありません。


 そう答えられることが、一番怖かった。


 バッタは、すぐには答えなかった。




 しばらく、風の音だけが二匹の間を流れていた。


 やがて、バッタが静かに口を開く。


「……あります。」


 カニは顔を上げた。


「何だ。」


 バッタはゆっくりと息を整える。


「オレ……あの水槽で暮らせて、本当に楽しかったです。」


 カニは何も言わない。


 ただ、最後まで聞こうと決めていた。


「最初は、人間が怖かった。」


「毎日、大きな顔がのぞいてきて。」


「知らない食べ物が運ばれてきて。」


「どうなるんだろうって、不安でした。」


 風が吹く。


 草が揺れ、稲穂がさらさらと鳴る。


「でも。」


「人間たちは、オレたちを傷つけようとはしませんでした。」


「タッくんは毎日、水槽をのぞき込んで。」


「見たこともない野菜を入れてくれて。」


「カニさんは、水の中の話をたくさん聞かせてくれました。」


 少しだけ呼吸が乱れる。


「もし、あの日。」


「オレがあの水槽へ連れて来られなかったら。」


「きっと、この草むらで草を食べて。」


「また次の日も草を食べて。」


「運が良ければ、つがいを見つけて。」


「子どもを残して。」


「そんな一生だったと思います。」


 バッタは静かに続ける。


「それも、きっと。」


「バッタとしては幸せな一生だったのでしょう。」


 少しだけ間が空いた。


「でも。」


「オレは。」


「カニさんと暮らした毎日の方が、ずっと楽しかったです。」


「だから。」


「悲しいことは、一つもありません。」


 カニは顔を伏せる。


 目の奥が熱くなった。


 それでも、声だけは震わせまいとした。


「……バッタ。」


「最期に。」


「オレに何かしてやれることは、本当にないのか。」


 バッタは少し息を整え、小さく笑った。


「思い残すことはありません。」


 また、静かな間が流れる。


 そして。


「……一つだけ。」


「お願いがあります。」


「何だ。」


「オレを。」


「食べてくれませんか。」


 カニは言葉を失った。


「何を言ってる。」


「そんなこと、できるわけねぇだろ。」


 バッタはゆっくりと首を振る。


「オレは、もう助かりません。」


「このまま息が止まれば。」


「さっきのカマキリかもしれない。」


「鳥かもしれない。」


「アリたちかもしれません。」


「誰にも見つけてもらえず、土へ還るのかもしれません。」


 静かに息をつく。


「それが自然なのは、分かっています。」


「でも。」


「もし、願いを一つだけ聞いてもらえるなら。」


「最期まで面倒を見てくれたカニさんの力になって、役目を終えたいんです。」


 カニは何も返せなかった。


 ただ、バッタを見つめることしかできない。


 すると、バッタが小さな声で言った。


「カニさん。」


「身体……ぼろぼろですね。」


 カニはかすかに笑う。


「お前、目は見えてねぇんだろ。」


「何でそんなことが分かる。」


 バッタは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「長い付き合いじゃないですか。」


「そのくらい……分かります。」


 その声は、風に溶けるほど小さかった。


 しばらくして。


 呼吸が一度だけ、大きく揺れる。


 それきりだった。


 バッタは静かに、その短い生涯を終えた。


 カニは何も言わなかった。


 亡骸をそっと抱き寄せる。


 もう返事はない。


 風が吹く。


 草が揺れる。


 遠くでカエルが鳴いた。


 虫たちが夜の始まりを告げるように鳴き続ける。


 絶えることなく、水は静かに流れていた。


 その夜も、この草原では、数え切れない命が、それぞれの夜を生きていた。

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