ギデオンの最後の一行は、負債ではなかった

 王都へ戻る門の前で、ギデオンは俺たちを止めた。


「赤い帳簿を開くな。祭りの鐘が鳴るまで待て」


 命令ではない。警告だった。


 だが、大討伐祭の観客席からはもう歓声が上がっている。中断されたはずの試合が、俺たちの帰還を待たず再開されていた。


「待てば、また誰かの借金が増える」


 俺は帳簿の留め金を外した。


 最後の一行にあったのは金額でも、返済者の名でもない。


『熱量、興行委員会へ移管』


 その瞬間、闘技場から二度目の歓声が届いた。赤い文字が脈打ち、行の端へ金貨の数字が増える。


 観客が興奮するたび、祭りは魔力を集めていた。勇者の借金を返すためではない。次の召喚費用を作るために。


「だから勝敗を派手にしたのか」


 光輝が剣を抜いた。


「違う」


 ギデオンは門の向こうを見た。


「派手な勝利ほど、次の勇者を高く売れる」


 俺たちは観客通路へ走った。


 闘技場では、名も知らない少年勇者が巨大な鎧獣と向き合っていた。少年の足は震えている。それでも司会者は、最年少の奇跡と叫び続けた。


 上段の魔力計は、鎧獣ではなく客席へ針を向けている。


「試合を止めれば、少年の違約金は倍になる」


 リゼッタが契約表示を読んだ。


「勝たせても、歓声が次の召喚へ回る」


 二つの悪い選択肢から選ぶ必要はない。


 俺は剣ではなく、風を床下へ流した。


 観客の熱を吸う導管が、砂の下で鳴った。細い管を一本ずつ震わせる。隠されていた配管の形が、闘技場いっぱいに砂紋となって浮かんだ。


 歓声が止まる。


 鎧獣が少年へ突進した。


 光輝が飛び込み、剣の腹で角をそらす。倒さない。少年を抱えて、境界線の外へ転がった。


「棄権じゃない!」


 光輝は観客へ叫んだ。


「勝敗を作っている装置が見つかった。条件が違う試合は、最初から成立していない!」


 興行委員が鐘を鳴らそうとする。


 ギデオンがその腕を止めた。


「私が承認した祭りだ。止める責任も私が負う」


 彼は壇上へ上がり、自分の紋章を外した。


 観客から罵声が飛ぶ。返済の機会を奪うな。勇者の逃げだ。金を返せ。


 俺は赤い帳簿を掲げなかった。遠くの数字を見せても、また説明する者だけが力を持つ。


 代わりに、床下の導管を風で持ち上げた。


 太い管の表面に、観客席の区画名と徴収率が刻まれている。自分の席からどれだけ取られたか、誰でも読めた。


 最前列の女が立ち上がった。


「私たちは、勇者を応援していたんじゃないの?」


「応援していた」


 リゼッタが答える。


「その気持ちを、委員会が勝手に担保へ変えました」


 少年勇者は光輝の腕から降りた。


「僕の借金はどうなるんですか」


 俺は答えを急がなかった。


「今日の試合分は増やさせない。元の契約は、君抜きで決めない」


 救うと言い切れば、また少年から選ぶ権利を奪う。


 ギデオンは最後の一行へ自分の指を置いた。


「これは負債ではない。観客の熱を誰が所有するかという権利だ」


 そして、自分の承認印を爪で削った。


 赤い行の増加が止まる。


 祭りは終わっていない。けれど次の鐘を鳴らす前に、初めて観客自身が条件を読む時間が生まれた。

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