灰色の群れは、壁ではなく札へ走る

 灰喰い蜥蜴は、思ったより小さかった。


 犬ほどの体。灰色の鱗。細い脚。牙はあるが、毒鎌竜ほどの威圧感はない。一匹なら、子供でも石で追い払えるかもしれない。だが、二十匹が低く身を伏せ、同じ方向を見ていると、話は変わる。


 群れは、数で一つの魔獣になる。


 会場の客は笑っていた。兇級を倒した勇者に、下級の蜥蜴。拍子抜けした声もある。だが、貴族席だけは妙に静かだった。ドマ侯爵が扇子を揺らしている。その隣に、昨日の従者。袖から、また薬草の匂いがした。


 興奮剤。灰喰い蜥蜴に使うには強すぎる。


 俺は闘技場の中央に立ち、砂を踏んだ。砂は新しい。昨日まで使われていた古い砂ではない。入れ替えられている。風を落とすと、砂の下から甘い匂いが立った。


 撒いてある。


 魔獣の足裏から吸わせる薬草粉。群れを興奮させ、逃走本能を強める。闘技場の端へ、観客席側防壁へ走らせる仕掛けだ。俺が止め損ねれば修繕費。止めようとして魔力を使えば借金。止めずに時間を食えば安全費。


 よくできた罠だ。雑だが、金を取るには十分だ。


 審判が旗を上げた。


「開始!」


 檻が開いた瞬間、二十匹の蜥蜴が一斉に飛び出した。まっすぐ俺へ、ではない。左右へ散る。いや、散らされている。砂の下の匂いが、会場の端へ道を作っている。群れは匂いを追い、観客席側の防壁へ走った。


 観客が悲鳴を上げる。まだ防壁は遠い。だが、悲鳴は金になる。恐怖は札を動かす。貴族席では、ドマ侯爵が満足そうに顎を撫でていた。


 俺は動かなかった。


「逃げるぞ!」


「止めろ、凪の勇者!」


 声が飛ぶ。止めろ。走れ。魔法を使え。借金を増やせ。全部同じ意味だ。


 俺は、風を置いた。


 攻撃ではない。壁でもない。空気の薄い溝を、砂の上に引く。蜥蜴の鼻先にだけ届く、ごく細い風。砂の下に撒かれた薬草粉を、ほんの少しだけ浮かせ、向きを変える。


 匂いの道を、曲げた。


 灰喰い蜥蜴の群れは、防壁へ走っていた足を止めた。先頭が鼻を鳴らし、進路を変える。二匹、三匹と続く。群れは一つの波になって、観客席ではなく、貴族席の下へ向かった。


 会場の空気が変わった。


 ドマ侯爵の顔から笑みが消える。貴族席の下には、防壁がある。ただし、観客席側とは別の、賭け札保管庫へつながる搬入口の前だ。祭りの最中、そこには一時的に札束と換金票が積まれている。風で拾った紙の匂いが、朝からそこにあった。


 蜥蜴は防壁へ触れない。観客席にも近づかない。ただ、薬草の匂いを追って、札の匂いがする場所へ走る。


「止めろ!」と叫んだのは、今度はドマ侯爵だった。


 俺は肩をすくめた。


「出場者は魔獣を制圧すること。防壁接触前に、な」


 俺は一歩だけ進み、足元の砂を蹴った。置き風が砂を巻き、蜥蜴の鼻先へ柔らかく落ちる。興奮剤の匂いが薄まる。代わりに、俺が闘技場の中央へ置いておいた餌袋の匂いが立ち上がる。餌袋の中身は、灰喰い蜥蜴が好む乾燥虫。備品倉庫で見つけた。請求書つきで借りた。安かった。


 二十匹の蜥蜴が、一斉に中央へ戻ってきた。


 俺の周りで輪を作り、餌袋へ頭を突っ込む。噛みつかない。暴れない。薬草で興奮していても、腹は減る。生き物は、だいたい金より飯に正直だ。


 審判が困った顔をした。


「制圧……成立?」


 リゼッタが席を立った。査定官の制服が、風に少し揺れる。


「二十体、行動停止。出場者への攻撃なし。観客席側防壁への接触なし。規定時間内。制圧成立です」


 彼女は帳面に認定印を押した。


「使用魔力、三。備品餌代、銀貨二枚。追加債務なし」


 会場がざわめいた。何が起きたか分からない客も、金が動いたことだけは分かる。俺の勝ち。二十倍。ドマ侯爵が仕込んだはずの安全費も修繕費も、発生しない。むしろ、灰喰い蜥蜴が賭け札保管庫へ向かった事実だけが残った。


 俺は貴族席を見上げた。


「侯爵どの」


 ドマ侯爵の指輪が、扇子の上で止まる。


「薬草の匂いが、賭け札保管庫の前まで続いていました。魔獣があちらへ走った理由は、興行委員会の管理責任でしょうか。それとも、規則責任者の署名者に確認すればいいですか」


 会場が静まった。


 昨日、俺は署名をもらっている。規則責任者、ドマ・ラングレイ。彼は自分の罠に、自分の名前を書いた。


 リゼッタのペンが走る音だけが聞こえた。


「……調査事項として記録します」


 ドマ侯爵は笑おうとして、失敗した。失敗した笑顔ほど、見ていて分かりやすいものはない。


 俺の腕の契約印が、わずかに熱を持った。勝利報酬の計算が始まる。二十倍。毒鎌竜ほどではないが、悪くない。なにより今回は、相手の札を一枚めくれた。


 胴元は勝つように場を作る。


 なら、こちらも場を作るだけだ。


 灰色の群れは、壁ではなく札へ走った。次は、札を握っている手を走らせる。

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