凪の勇者

 俺は洞窟に、一歩踏み込んだ。


 試合開始。会場の観客には、俺の背中しか見えない。暗闇に消えていく、E級の風使い。二百倍に賭けた連中は、もうすぐ俺が毒に溶ける音を、耳をそばだてて待っている。


 だが、俺は歩かない。入り口から数歩の岩陰に身を潜め、風だけを、奥へ送る。


 まず、偽の音を作った。


 置き風を、洞窟の東の壁へ。空気を薄く叩きつけ、規則的な反響を返す。人の足音に似た、間隔で。毒鎌竜は目が退化している。音で獲物を測る。その耳に、東の壁から近づいてくる「獲物」を聞かせた。竜が身じろぎする気配。呼吸が乱れる。風が、その乱れを俺に運ぶ。竜は、いもしない獲物を、追い始めた。


 次に、毒を動かす。


 竜が東へ動けば、寝床に沈んでいた古い毒が乱れる。俺は置き風を、竜の進む先へ、順に起こしていく。低所に澱んだ毒を、掃くように、少しずつ竜の前へ寄せる。押しはしない。ただ、澱みを撫でて、流れを作る。竜は自分が過去に吐いた毒の帯の中を、偽の足音を追って、進んでいく。自分の毒の匂いには、慣れて、鈍い。


 会場からは、何も見えない。何の音もしない。俺は岩陰で、目を閉じて座っているだけだ。観客は苛立ち始めている。「どうした」「逃げたのか」「風使いはどこだ」。二百倍の札を握った連中が、ざわつく。


 俺は、風で竜の匂いを、一心に聞いていた。乾いた、薄い匂い。──来た。脱皮だ。


 竜が、古い皮を脱ぎ始めた。資料の通り、そのあいだ毒腺は閉じる。今、竜は毒を吐けない。だが、寝床には、竜がこれまで吐きためた毒が、まだ濃く沈んでいる。


 俺は、置いておいた風を、一斉に起こした。分割。七つの微風を同時に操る。洞窟の気流を、ほんのわずかに、逆向きへ。奥へ流れる空気の一方通行を、瞬間だけ、堰き止める。すると、寝床の底に溜まっていた毒が、行き場を失い、その場に濃く立ちのぼる。


 偽の足音を、俺は寝床の中心へ移した。


 脱皮でぼんやりした竜は、最後の獲物を仕留めようと、自分の寝床の、一番毒の濃い窪みへ、頭から突っ込んだ。毒を吐けない竜が、自分の吐きためた毒の沼に、顔を沈めた。


 一度、大きく、竜が身を震わせた。


 それきり、音が止んだ。


 風が、竜の呼吸が止まりかけているのを運んでくる。昏倒。討伐、成立だ。俺は一度も、竜に触れていない。風は一度も、攻撃していない。竜を殺したのは、竜自身が吐いた毒だった。


 俺は岩陰から立ち上がり、洞窟を出た。


 会場が、俺を見た。無傷で、涼しい顔で、暗闇から歩いて出てくる風使いを。審判が奥を確認し、旗を上げる。討伐成立。──刹那、会場が爆発した。二百倍の札が、一斉に紙くずになった音だ。


 誰も、何が起きたか分からない。E級の風使いが洞窟に入って、しばらく座っていたら、兇級の毒鎌竜が勝手に死んだ。それだけに見えた。あまりに何も起きなかったので、逆に、誰かが呆然と呟いた。


「……あいつが立ってる間、何も、起きなかった」


 その一言が、会場を渡った。「凪の勇者」。風の勇者なのに、戦いのあいだ、ほとんど何も起きていないように見える。だから、そう呼ばれた。二つ名にしては、地味だ。だが、俺にとっては、これ以上ない褒め言葉だった。何も起きなかった。それは、俺が魔力をほとんど使わなかったということだ。


 審判席で、リゼッタが記録を締めた。


「討伐、成立。使用魔力、七。無被弾。……減額、金貨二千枚」


 彼女は俺を見て、もう睨まなかった。ただ、疲れた顔で、静かに認定印を押した。


「今回も──腹立たしいほど、合法です」


 種明かしの残り半分は、彼女にも言わなかった。偽の足音を追わせたことも、毒を寄せたことも、彼女は風の痕跡から辿り着くだろう。だが、一番の肝は、そこじゃない。


 俺は、脱皮の窓を「待った」だけじゃない。脱皮を、早めた。洞窟の気流を、下見の時から少しずつ操っていた。竜の寝床の湿度を、置き風で幾晩か下げておいた。皮は、乾けば早く裂ける。竜は、自分の意志で皮を脱いだつもりでいる。だが、脱ぐ頃合いを決めたのは、俺だ。


 賭けの一番の不確定要素だった「脱皮のタイミング」を、俺は前もって、こっそり自分の側へ引き寄せていた。賭けってのは、胴元が勝つようにできてる。だから、卓につく前に、賽の目を仕込んでおく。それが、胴元の仕事だ。


 二千枚。無被弾ボーナス。三万枚から始まった帳簿が、もう半分を切った。この調子なら、完済も遠くない。完済すれば、契約解除。帰還権。だが、帰る場所はない。俺が数えたいのは、帰り道じゃない。この国の賭場が、なぜこんな歪んだ設計になっているか、その底だ。


 その夜、俺は城の廊下で、ふと足を止めた。


 財務卿の執務室。扉が、わずかに開いていた。ギデオンが、一人で机に向かっている。分厚い帳簿を開いて、最後の一頁を眺めていた。俺は風を、そっと隙間へ送った。盗み見る趣味はない。だが、あの男の帳簿は、この国の全ての債務が載る、大本だ。見ておく価値はある。


 風が、頁の文字を、匂いと影で読み取ってくる。ずらりと並ぶ、勇者たちの負債。剣聖、光帝、大賢者。そして、俺の名。刈谷凪、負債残高、減少中。


 その最終行に、一つだけ、赤いインクで記された名があった。


 他の名はすべて黒。だが、その一行だけが、赤。赤字。返せない負債の色だ。俺はその名を読んで、息を止めた。


 【ギデオン・ヴァルト】


 この国の債務を管理する男自身が、帳簿の最終行に、赤字の負債として、記されていた。意味は、まだ分からない。だが、あの男は、自分を負債として数えている。


 俺が音を立てる前に、風を引いた。まだ、踏み込む時じゃない。


 翌朝、城に布告が出た。王都で、大討伐祭を開催する。国中の勇者と貴族が集まる、最大の興行。


 ギデオンが、俺の部屋を訪ねてきた。伝令ではなく、本人が。


「次の舞台は、王都だ」男は言った。「賭場の桁が変わる。イカサマも、桁が変わる。……精々、派手に地味に勝て、刈谷凪」


 派手に、地味に。矛盾した注文を残して、男は去った。


 俺は窓辺で、風を一つ、放った。消費魔力一。王都の方角へ、そよ風が流れていく。


 次の胴元の帳簿は、どんな味がするだろうな。

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