後出しのルールは、後出しで裏返す
追加されたルールは、こうだった。
【場外に出た者を、敗北とする】
俺は伝令の羊皮紙を、三度読んだ。読むほど、笑えてくる。小柄で非力な俺を、力任せに吹き飛ばして場外に落とす。そういう絵を描いた誰かがいる。後出しのルールは、たいてい書いた奴の願望が透けて見える。この一条は、俺を殺すために足された。だから、この一条で相手が死ぬ。
対戦相手は、C級勇者セルジュ・ドラン。炎の魔法使いだ。
控え室で顔を合わせた瞬間から、こいつは喋りっぱなしだった。「雑用風がよく本興行まで生き残ったな」「猪は運が良かっただけだろう」「俺の炎で、貴様の風なんぞ一瞬で干上がる」。声がよく通る。よく通るということは、風がよく声を運ぶということだ。俺は黙って、その声の湿り気を聞いていた。緊張で、少し喉が渇いている。強がりだ。
控え室で、俺は目を閉じて風を場内へ流していた。闘技場の砂の湿り具合、風の通り道、日差しの角度。晴れて、乾いている。砂は舞いやすい。西から弱い風が流れている。使える条件を、一つずつ数える。前世の卓と同じだ。カードを配る前に、席とライトと客の癖を数える。準備の八割は、始まる前に終わっている。始まってから慌てる奴は、もう負けている。
闘技場に出る。会場は今度は、俺の勝ちにも少し賭けが入っていた。前回の猪で、味を占めた連中がいる。倍率は五十倍から、二十倍に下がっていた。悪い兆候じゃない。ただ、次からはもっと下がる。俺が勝ち続けるほど、報酬の倍率は削れていく。いつか、勝っても割に合わなくなる。それは、後で考える問題だ。
開始の合図。
セルジュは即座に対魔障壁を張った。半球状の魔力の膜。並の魔法は通さない。だがそれは、俺には関係ない。俺の風は魔力一。障壁は魔力一の風を、ノイズとして無視する。閾値以下は、存在しないのと同じ扱いだ。俺の風は、膜を素通りして障壁の内側に入る。
まず、砂だ。
俺は障壁の足元、セルジュの周りの砂に、逆回転の風を這わせた。砂が舞い上がる。障壁の内側で、砂の煙が渦を巻く。セルジュの視界が、白く濁った。障壁が敵の魔法を防いでいる、と本人は信じている。だから、内側に砂が満ちても、外の攻撃だと思わない。自分の障壁の中で、勝手に目を潰されていく。
「どこだ、雑用風! 出てこい!」
セルジュが炎を乱射し始めた。見えないから、闇雲に撃つ。火柱が四方に立つ。障壁の内側は、砂と炎で灼熱の檻になった。彼は自分で自分を蒸し焼きにしている。
俺は次の手を打つ。炎の熱気を、風で本人へ返す。順回転で、彼が放った火柱の熱をそのまま押し戻す。障壁は魔法を防ぐが、熱風は防がない。ただの空気の温度だからだ。セルジュの体温が上がる。汗が噴き出す。風聞きで、俺には彼の発汗が匂う。魔力の消耗が、汗の量で分かる。C級の魔力なんて、たかが知れている。炎を撒くほど、彼の魔力庫は空になっていく。撃つほど、彼の借金も増えていく。派手に戦うほど沈む、この国の設計通りに。
俺は指一本、動かしていない。ただ、彼の熱を、彼に返しているだけだ。攻撃はしていない。空気を、少し押し戻しただけだ。彼は自分の炎で焼かれ、自分の魔力で溺れ、自分の汗で乾いていく。俺のやっていることは、掃除に近い。彼が撒き散らしたものを、彼の側へ寄せているだけ。掃除魔法。生活魔法。鑑定は間違っていない。俺は本当に、掃除しかしていないのだから。
そして、最後の一手。置き風だ。
試合が始まる前、俺はセルジュの立ち位置の足元、その一歩後ろの砂に、風を一つ置いていた。今、それを起こす。逆回転。砂を、下から崩す。足場が、わずかに沈む。
魔力切れでふらついていたセルジュは、崩れた足場に体勢を失った。同時に、自分が撒いた火柱が、目の前に立っている。熱い。避けたい。彼は本能的に、火から遠ざかる方へ足を踏み出した。
その方向に、場外の白線があった。
セルジュ・ドランは、自分の炎から逃げて、自分の足で場外に出た。
審判が旗を上げる。場外。敗北。彼を殺すために足されたルールが、彼を敗者にした。俺は場内の砂の上に、涼しい顔で立っている。使用魔力、三。
会場が、また静まった。それから、前回より大きなどよめきが起きた。
控えに戻る途中、セルジュとすれ違った。煤だらけで、汗だくで、何が起きたか分かっていない顔だった。俺は、一言だけかけてやった。
「後出しのルールってのは、書いた奴が一番読んでない。場外を作ったのは、あんたを落とすためだ。だから、あんたが落ちた」
本当のことは、言わなかった。あの砂崩しの一手は、実は落とすための仕掛けじゃない。あれは、彼に「火から逃げる方向」を選ばせるための、道の掃除だ。足場を崩したのは、彼を場外の側へ倒すためじゃない。反対側、つまり火柱のある側の足場を崩さずに残して、火に近づかせないためだった。人は、安定した床のある方へ逃げる。俺は、逃げ道の床を一枚だけ残して、そこへ誘った。その先が、たまたま白線の外だった。獣と同じだ。人も、直前まで安全だった方向を信じる。
誘導したんじゃない。逃げ道を、一本だけにしただけだ。
審判席のリゼッタが、帳面に書き込みながら、俺を睨んでいた。あとで、また「合法です」と言わされるのだろう。彼女には気の毒だが、俺は文言の外に一歩も出ていない。
その日、二つの変化があった。
一つ。観客席の最前列に、光帝の少女がいた。大鷹光輝。彼女は──いや、あいつは。名簿では男だった。中性的な顔の青年だ。試合のあいだ、ずっと身を乗り出して俺を見ていた。何かを面白がる目だった。強者が、初めて理解できない駒を見つけた目だ。
二つ。減額が進み、俺の負債は二万を切った。だが同時に、俺の勝ちに賭ける貴族が増え始めた。オッズが、下がっていく。前回二十倍だったものが、次は十倍を切るだろう。人気が出るというのは、この賭場では、儲けが減るということだ。
英雄になれば、報酬が痩せる。ハズレでいるほど、金が跳ねた。皮肉な話だ。俺の武器は、はじめから「誰にも期待されないこと」だった。その武器が、勝つたびに擦り減っていく。
勝つほど、儲からなくなる。新しい問題が、静かに帳簿に載った。
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