豪華な城は、全部ツケだった
翌朝、俺にも城の一室が与えられた。天蓋つきの寝台、磨かれた床、銀の水差し。ハズレ枠にしては上等すぎる部屋だ。上等すぎるものには、必ず値札がついている。俺はそれを探すことにした。
勇者たちは大広間で歓待を受けていた。給仕が肉を運び、酒を注ぎ、仕立て屋が鎧の採寸をしている。剣聖の男は三本目の剣を試し、光帝の少女は治療師に軽い火傷を診てもらっていた。誰もが上機嫌だった。無料の祝祭。そう信じている顔だ。
俺は壁際で、風を一つ、そっと放った。消費魔力一。詠唱も、光も、音もない。誰も気づかない。窓の隙間から、廊下の奥へ。風を糸のように伸ばして、空気の流れを手繰る。
風聞き、と俺は勝手に呼んでいる。流れる空気は音を運ぶ。温度を運ぶ。匂いを運ぶ。廊下の奥、帳簿部屋らしき一室から、紙をめくる乾いた音がした。羽根ペンが走る音。数字を読み上げる、抑えた声。
「剣聖・剣三振、装備費、金貨八十枚、加算」
「光帝・治療一回、実費、金貨十二枚、加算」
「大賢者・書庫閲覧、金貨五枚、加算」
俺は口の端だけで笑った。やっぱりな。
この城の歓待は、全部ツケだ。肉も酒も鎧も治療も、一つ残らず勇者本人の債務に積まれている。剣聖が試し斬りするたび、光帝が火傷を診てもらうたび、数字が静かに増えていく。誰も明細を見ていない。見せられていない。戦功で自動返済される、とだけ聞かされて、皿の上の借金を旨そうに食っている。
俺は肉に手を出さなかった。水差しの水も、たぶんタダじゃない。この城では、呼吸以外はすべて有料だと思っておけば間違いない。
風を、もう少しだけ奥へ伸ばした。帳簿部屋の声が続く。剣聖の債務残高、既に金貨三万を超えている。召喚費用に、装備に、宿舎の維持費。あいつは自分がいくら背負っているか、たぶん十分の一も知らない。「戦功で返す」と信じて、今日も新しい剣を抜いている。強い勇者ほど、深く沈む設計だ。派手に戦うほど魔力を食い、魔力を食うほど借金が積み上がる。この国は、英雄を溺れさせて金を取っている。よくできた仕掛けだ。悪意すら感じない。ただの、冷たい算術だ。
俺はその算術の外側に、たった一人だけ立っている。
中庭に出た。人がいない。今のうちに、手札を確かめておきたかった。
俺の魔法は【そよかぜ】。鑑定には威力Eと射程Eしか出ない。だが二項目しか出ないということは、それ以外の性質は誰にも見えないということだ。俺は風を放ち、掌の上で転がしてみた。
まず、順回転をかける。風はわずかに押す力を持った。落ち葉が向こうへ滑る。次に、逆回転。同じそよ風なのに、今度は葉が手前へ引かれた。見た目は同じだ。強さも同じ。だが、押すか引くかを打ち分けられる。
俺は葉を三枚並べ、一枚は押し、一枚は引き、一枚は渦で巻き上げた。掌の中で、風が三つの別の仕事をした。誰かがこの光景を見ても、ただ風が吹いたとしか思わないだろう。それでいい。見えない変化球ほど、当たったときに誰も理由が分からない。
もう一つ確かめる。俺は風を空間に「置いて」みた。掌の前に、そよ風を留める。放したのに、そこに残っている。しばらくして、離れた場所からそれを起こす。遅延発動。数を数えて、七つまでは同時に置いておけた。
最後に、匂いを試した。中庭の隅、厩の方角から風を引いてくる。馬の汗。飼い葉。土。鉄。風は、遠くの匂いを掌まで運んできた。目を閉じれば、見ずに厩の配置が分かる。人の汗の匂いも読める。前世で、俺は客の指先の汗で嘘を嗅いだ。それと同じだ。世界の側は変わっても、読むものは変わらない。
弾は揃っている。押す風、引く風、巻く風。置く風、分ける風、聞く風。どれも攻撃じゃない。どれも「そよ風」だ。鑑定にはただの生活魔法としか映らない。あとは、使い方だ。相手が勝手に転ぶ形を、どう組むか。それだけだ。
「熱心ですね。ハズレ枠の割に」
声がした。振り返ると、若い女が立っていた。十九か二十歳。地味な灰色の官服に、鑑定士の徽章。手には分厚い帳面。目つきが鋭い。人ではなく、条文を見るような目だ。
「王宮査定官、リゼッタ・モルです。あなたの契約の監査に着任しました」
彼女は帳面を開き、無感情に告げた。
「先に言っておきます。あなたの契約は、財務卿ギデオンの道楽です。オッズ連動報酬などという例外条項を、まともな査定官は認めません。魔力を使えば借金が増え、E級のあなたはまず勝てない。この契約は、遠からず潰れます。あなたは債務だけを残して、消える」
筋は通っている。反論の余地もない。彼女の計算は正しい。ただ一つ、前提が間違っているだけだ。俺が魔力を使って戦う、という前提が。
「査定官どの」
俺は風を一つ、彼女の帳面の頁にそっと当てた。ぱらり、と紙がめくれた。彼女が眉をひそめる。魔力一。彼女の徽章は、たぶん魔力を検知する。だが、何も反応しなかった。閾値。対魔の仕掛けは、小さすぎる魔力をノイズとして無視する。それも、確かめておきたかったことだ。
「あんたの計算、たぶん合ってる。でも一つだけ抜けてる。俺が魔力を使わなきゃいけない、って前提だ」
リゼッタは何か言いかけて、やめた。代わりに、冷えた声で言った。
「魔力を使わない勇者に、何の価値がありますか。討伐は魔法でするものです。あなたは、風で魔獣を倒せるとでも」
「倒すとは言ってない。勝つとは言うかもしれないが」
彼女は俺をしばらく見た。理解できない数字を見る目だった。それから帳面を閉じ、俺の名を記す音を、ひとつ残していった。監査対象、要観察。そう書いたに違いない。悪くない。読まれるより、測り損ねられている方が、こっちは動きやすい。
彼女が去った中庭で、俺はもう一度風を置いた。今度は、自分の背後に。人が近づけば、その足音を運ぶ風。前世でいう、店の裏口の見張りだ。この城には敵しかいない。味方のふりをした帳簿と、帳簿のふりをした査定官と、笑っている借金だらけの同期。守るべきは一つ、俺の背中の帳尻だけだ。
その日の夕、部屋にギデオンの伝令が来た。羊皮紙の一枚。俺は全文読んだ。読むのは、もう癖だ。
明日、討伐興行の前座に出ろ、とあった。相手は魔獣一体。そして最後の一行に、こうあった。
【出場者・刈谷凪、負けオッズ五十倍】
五十倍。会場中が、俺の即死に賭けるということだ。
俺は伝令を畳んで、静かに笑った。上等だ。倍率が高いほど、勝ったときに帳簿が跳ねる。
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