第4話 蹴れないボール
「すみませーん! ボールお願いしまーす!」
グラウンドから声が飛ぶ。
足元には、一つのサッカーボール。
たったそれだけなのに。
蒼真の体は、まるで動かなかった。
夕日に照らされた白と黒のボール。
懐かしい感触が、指先に蘇る。
小学生の頃から、ずっと一緒だった。
朝も。
昼も。
夜も。
いつだって、自分の隣にはボールがあった。
――なのに。
「……っ。」
左膝がズキリと痛む。
脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
雨の交差点。
ヘッドライト。
ブレーキ音。
地面へ叩きつけられる感覚。
そして――。
『左膝の靭帯損傷……以前と同じようにプレーするのは難しいでしょう』
病院で聞いた、医者の言葉。
「……っ!」
蒼真は息を飲んだ。
「おーい! 大丈夫ですかー?」
再び声が飛ぶ。
それでも体は動かない。
ボールを見ているだけで、胸が苦しくなる。
すると。
「神代。」
後ろから声がした。
振り返る。
黒崎だった。
「先輩……。」
「悪い。うちのボール。」
黒崎は足元のボールを見る。
そして、蒼真の顔を見た。
「……触れないのか?」
ドクン。
心臓が跳ねる。
「違います。」
「そうか。」
また、それ以上は聞いてこない。
黒崎はゆっくりとボールへ近づいた。
だが、拾わない。
代わりに、蒼真の隣へ立った。
「なあ。」
「……。」
「俺、一年の頃さ。」
珍しく、黒崎が自分の話を始めた。
「全国なんて無理だって思ってた。」
「……。」
「うち、弱かったし。」
夕日を見ながら、黒崎は笑う。
「でも、サッカーが好きだった。」
その言葉が胸に刺さる。
「だから、毎日ボール蹴ってた。」
静かな声だった。
「好きって、案外厄介なんだよな。」
蒼真は何も言えない。
「やめようと思っても、忘れられない。」
……忘れられない。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「先輩。」
気づけば、口が動いていた。
「もし……。」
「うん。」
「もし、好きなものが急になくなったら……どうしますか。」
黒崎は少しだけ驚いた顔をした。
それから、少し考える。
「……なくならないんじゃないか。」
「え?」
「好きだったことは。」
夕日が、二人を赤く染める。
「できなくなっても、嫌いにはならないと思う。」
「……。」
「だから苦しいんだろ。」
蒼真は目を見開いた。
まるで、自分の心を見透かされたようだった。
「俺……。」
言葉が続かない。
喉の奥が熱い。
苦しい。
ずっと誰にも言えなかった。
でも。
「……俺。」
震える声が漏れる。
「サッカーが……。」
そこで止まった。
言えない。
認めたくない。
認めてしまったら。
もう、戻りたくなってしまうから。
その時だった。
「神代!」
突然、誰かが走ってきた。
「やっぱりここにいた!」
佐伯だった。
息を切らしている。
「何してんだよ!」
「……別に。」
「って、サッカー部の先輩!」
「あ、どうも。」
黒崎が軽く頭を下げる。
「お前、やっぱりサッカー好きなんじゃん!」
「違う。」
「いや、毎日ここ来てるだろ!」
「……。」
「図星!」
佐伯は楽しそうに笑う。
その笑顔に、少しだけ救われる。
「神代。」
黒崎が足元のボールを見る。
「返してくれるか?」
蒼真の心臓が跳ねた。
「……俺が?」
「ああ。」
たった数メートル。
軽く蹴るだけ。
それだけなのに。
足が動かない。
怖い。
もし、また痛くなったら。
もし、もう前みたいに蹴れなかったら。
もし……。
「……無理です。」
小さな声だった。
黒崎は何も言わない。
責めない。
笑わない。
ただ、一歩だけ前へ出た。
そして、ボールを拾い上げる。
「そっか。」
それだけだった。
その優しさが、逆につらかった。
黒崎はボールを抱える。
「じゃあ、また明日な。」
「……え?」
「来るだろ?」
思わず顔を上げる。
「お前、明日もここに来る顔してる。」
そう言って笑った。
そして、グラウンドへ戻っていく。
残された蒼真は、夕焼けの空を見上げた。
「……明日も。」
来るのか。
自分が。
また、この場所へ。
左膝に手を置く。
まだ痛い。
まだ怖い。
でも――。
胸の奥の何かが、少しだけ動き始めていた。
「神代。」
隣で佐伯が笑う。
「お前さ。」
「……何。」
「サッカー、好きなんだな。」
夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
蒼真はしばらく黙っていた。
そして。
誰にも聞こえないくらい小さな声で、呟いた。
「……嫌いになれないだけだ。」
その言葉は、春の風に溶けていった。
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