第四章 <転移の秘密>

港で働き始めてから、一か月が過ぎた。


最初は言葉も分からず、おどおどしていた私たちも、今では港の人たちに顔を覚えられていた。


「サトコ!」


「ヨシミ!」


朝、港へ着くと、あちこちから声が飛ぶ。


私も手を振り返す。


「おはよー!」


もちろん日本語だ。


向こうは何を言っているか分からないだろうけど、それでも笑ってくれる。


人の笑顔って、言葉がなくても伝わるんだなと思った。



ある日の昼休み。


港の休憩所で昼食を食べていると、ラモンが近づいてきた。


「Maria。」


マリアさんを呼んで何か話している。


マリアさんは私たちの方を向いた。


「今度の日曜日、お休みでしょう?」


「はい。」


「少し付き合ってくれませんか?」


「どこへ?」


「教会よ。」



日曜日。


港から車で一時間ほど離れた、小高い丘の上に建つ古い教会へ向かった。


白い壁はところどころ剥がれ、屋根にはツタが絡まっている。


何百年も前から建っているような雰囲気だった。


「きれい……。」


よし美が思わず声を漏らす。


教会の中は静かだった。


外の暑さが嘘のように涼しい。


木製の長椅子が並び、色鮮やかなステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいた。


祭壇の前に、一人の老人が立っていた。


白髪混じりの男性。


穏やかな顔立ち。


マリアさんが紹介する。


「神父のエステバンです。」


老人はゆっくり微笑んだ。


「日本の方ですね。」


流暢ではないが、はっきりとした日本語だった。


「日本語が話せるんですか?」


「昔、日本人の神父と一緒に勉強しました。」


私たちは驚きながら頭を下げた。



しばらく世間話をしたあと、マリアさんが私たちのことを説明した。


造船所。


トイレ掃除。


青い光。


突然の転移。


神父は黙って最後まで聞いていた。


そして、小さくため息をついた。


「……やはり。」


「やはり?」


神父は祭壇の奥へ歩いていく。


古びた木箱を抱えて戻ってきた。


鍵を開ける。


中には、一冊の革張りの日記が入っていた。


かなり古い。


表紙は色あせ、角は擦り切れている。


神父は慎重に開いた。


「これは、今から約40年前にこの教会へ預けられたものです。」


「誰が書いたんですか?」


「日本人です。」


その一言で、私たちの空気が変わった。



日記の最初のページには、日本語でこう書かれていた。


昭和61年5月2日


今日、私は突然この国へ来た。

誰に話しても信じてもらえない。

私自身も信じられない。


私は思わず息をのむ。


「私たちと……同じ。」


神父は静かにうなずいた。


「彼の名前はシュウイチさん。」


「その人も日本から?」


「はい。」


「どうやって?」


「あなた方と同じです。」



ページをめくる。


そこには、知らない土地で必死に生きようとする日本人の記録が残されていた。


言葉が通じなかったこと。


仕事を探したこと。


港で働いていたこと。


少しずつ現地の人と仲良くなったこと。


まるで、自分たちの一か月を読んでいるようだった。


「……鳥肌立ってきた。」


私は腕をさすった。


よし美も黙ったままページを見つめている。



さらに読み進めると、ある一文で手が止まった。


私は転移した場所を調べ続けた。

あの青い光は偶然ではない。

海の近くでだけ起きている。


「海の近く……。」


私たちがいたのも造船所。


港だった。


シュウイチさんも港。


偶然じゃない。



神父は祭壇の窓から海を見つめた。


「この辺りでは昔から、不思議な話があります。」


「不思議な話?」


「海が人を連れてくる。」


「……。」


「そして、海が人を帰す。」


その言葉に、教会の空気が一気に重くなった。



日記の最後の数ページ。


そこには、震える文字でこう書かれていた。



私はついに青い光を見た。

港の古い倉庫の近く。

光の中へ入れば、日本へ帰れる。

だが、一つだけ分かったことがある。

帰る時は選ばなければならない。



「選ぶ?」


私は思わず声に出した。


次のページには、たった一文だけ。


何か一つを置いていかなければならない。


「……え?」


意味が分からない。


荷物?


お金?


それとも——。


その先のページは破り取られていた。


「続きがない!」


私は慌ててページをめくる。


どこにもない。


最後のページには、小さくこう書かれていた。


また会おう。

日本で。


そこで日記は終わっていた。



帰り道。


車の中は誰も話さなかった。


窓の外では夕日が海を赤く染めている。


ようやく帰る方法の手がかりを見つけた。

それなのに、心は少しも軽くならない。


「何か一つを置いていく……って、どういう意味なんだろう。」


私がつぶやくと、よし美は静かに答えた。


「物じゃない気がする。」


「私も……そう思う。」


もし、その”何か”が取り返しのつかないものだったら。


家族。


思い出。


記憶。


あるいは——誰か。


車は港へ向かって走り続ける。


その頃、港では誰にも知られず、古い倉庫の奥で青白い光が、一瞬だけ静かに揺らめいていた。

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