第4話 傷とシチュー

実りの夏が過ぎて、ロウデンはすっかり顔つきを変えていた。井戸のまわりには清潔な水路が引かれ、畑には作物が重たげに実っている。裸足で駆けまわる子どもたちの頬は、着任した日の土気色が嘘みたいに、つやつやと赤い。


死に村なんて、もう誰も呼ばない。このまま静かにやっていけたら――と、わたしは呑気に思っていた。世の中はそう甘くないと、この村がいちばんよく知っているはずなのに。


――本日のお品書き。

一、まず、見る(敵か、患者か)。

二、傷を洗う。お湯と、きれいな布。

三、消化にいいごはんを、たっぷり。

以上。おおきい患者さんでも、やることは同じ。


なんて、朝の献立をまだ立てていなかったその日に、それは森から下りてきた。


ある朝、レフが血相を変えて駆け込んできた。


「大変だ! 森から、化け物が下りてきたぞ!」


戸口に立ったレフの肩が、大きく上下している。ここまで全力で走ってきたらしい。息を整える間も惜しむように、彼は続けた。


「霜牙狼だ。A級の魔獣だぞ。前に騎士団が討伐に来て、返り討ちにあったやつだ」


A級。騎士団が束になっても倒せなかった魔獣。それが、村のすぐそばまで来ているという。


わたしが言葉を返すより早く、村は大騒ぎになっていた。母親が子どもを抱えて走り、老人が井戸端の桶を取り落とす。積み上げたばかりの秋の実りを置いて、みんなが右往左往する。


「逃げろ! 食い殺されるぞ!」


「せっかく村が立ち直ったのに!」


レフが村の男たちに、ありったけの弓を配りはじめた。


「やるしかねえ。数で囲んで、なんとか追い払う。当たっても死なねえだろうが、やらなきゃ村が終わる」


けれど、弓を受け取る男たちの手は、あからさまに震えていた。以前、鎧を着た騎士団が束でかかって倒せなかった相手だ。鍬しか握ったことのない村人に、勝てる気がしないのは当たり前だった。


わたしは、その怯えた輪のなかへ割って入る。


「待ってください。戦う前に、一度だけ、わたしに見させてください」


「正気か! 食われるぞ!」


「もしわたしが食われそうになったら、そのとき矢を射ってください。それでいいでしょう」


正直に言えば、わたしだって怖かった。心臓は、さっきから胸のなかで暴れっぱなしだ。それでも、相手がどんなものかをまず見なければ、手の打ちようがない。診るのが先。手当ては、そのあと。順番はいつも同じだ。


レフが引き止めるのを振り切って、村のはずれまで歩いていった。


そこにいたのは、たしかに大きな獣だった。馬よりも大きく、全身が銀色の毛に覆われている。半開きの口元からは、霜のような白い冷気がふうふうと漏れていた。


なるほど、ふつうの獣じゃない。けれど、わたしの目は別のものを先に拾っていた。


その獣は、ひどく痩せていたのだ。銀の毛皮の下で、あばらが波打つように浮いている。後ろ足には大きな傷があり、そこから血と膿がにじんで、傷口はぐずぐずに化膿していた。


ああ、そうか。腑に落ちて、肩の力がふっと抜けた。


この子は、村を襲いに来たんじゃない。騎士団との戦いで負った傷が膿んで、獲物も獲れなくなったのだ。飢えて、ふらふらのまま、ここまで下りてきただけ。


つまり――お腹がすいて、痛くて、どうしようもなくなった子。それなら、やることはとっくに決まっている。


わたしは村のほうを振り返って、できるだけ落ち着いた声を出した。


「レフさん。お湯を沸かして、きれいな布を持ってきてください。それから、お肉を、たくさん」


「は? あんた、正気か! あれはA級魔獣だぞ!」


「怪我して、お腹をすかせた子です。それ以上でも、それ以下でもありません」


レフは信じられないという顔をした。村の人たちも、遠巻きに、息を殺してこちらを見ている。誰かが小さく漏らした。


「聖女様が、あの霜牙を、調伏なさるおつもりじゃ」


「調伏じゃありません。ごはんです」


きっぱり言い切ってはみたけれど、誰も聞いていなかった。皆、拝むような目でこちらを見ている。訂正はあきらめて、わたしは獣のほうへ、一歩ずつ足を進めた。


獣が、喉の奥で低くうなった。牙のあいだから、白い冷気がひときわ濃く噴き出す。こわい。心臓が口から飛び出そうだ。それでも、足は止めなかった。


前世で、何度もやったから。おびえた生き物に近づくときはゆっくり、低い声で、目を合わせすぎないで。保健室に迷い込んだ猫にも、そうやって近づいた。相手の大きさが百倍になっても、コツは変わらないはずだ。


「大丈夫。痛かったね。もう、大丈夫だよ」


そっと、傷のそばへ手を伸ばす。獣はうなったまま、けれど、噛みつきはしなかった。


レフが、腰を引いたままお湯と布を運んできてくれた。さました湯に布を浸し、傷口をていねいに拭っていく。まず膿をぬぐい、こびりついた汚れを落とし、また新しい湯で洗う。


当て布を替えるたび、獣がびくりと身を震わせた。それでも、じっと耐えてくれる。痛い治療なのだと、どこかで分かっているみたいに。


不思議だった。これだけ大きくて、これだけ強い獣が、ちっぽけなわたしのするままになっている。


たぶん、伝わるんだと思う。この手が、自分を傷つける手じゃないってことが。痛いことをされても、最後にはきっと楽になる。それを、本能のどこかで感じ取ってくれているのかもしれない。


やがて獣が、ふう、と長い息を吐いた。張りつめていた気配が、そのひと息で少しずつほどけていく。


傷をきれいにしたら、次はごはんだ。火にかけておいた寸胴鍋――もとい聖釜で、温かいシチューを煮込んだ。肉をたっぷり、くたくたに崩れるまで煮たやつ。弱った体に固いものはよくないから、やわらかくて、栄養があって、消化にいいものがいい。


湯気の立つそれを、獣の鼻先へそっと置いた。獣はしばらく匂いをかいでいたが、やがて、おそるおそる一口すすった。そして次の瞬間、堰を切ったように、ものすごい勢いでかきこみはじめた。


よほど飢えていたのだろう。鍋いっぱいのシチューは、あっという間に底が見えた。食べ終えた獣が、ゆっくりとこちらを見る。さっきまでの、敵意で尖った目じゃない。お腹がふくれて満ち足りた、ただの、まんまるい目だ。


そして、のっそり立ち上がると、大きな舌で、わたしの手をぺろりとなめた。あたたかくて、少し湿った、犬みたいな舌だった。


A級魔獣が、しっぽを振っている。どこからどう見ても、ただの大きな犬だった。


「……シロ」


毛が銀色だから、シロ。ずいぶん安直だけれど、ほかに思いつかなかった。


「シロ。これから、よろしくね」


そう呼びかけると、シロはうれしそうに、もう一度わたしの手をなめた。前世で犬を飼っていたわけでも、動物の専門家だったわけでもない。


ただ、痛くてお腹がすいて心細い気持ちは、人も獣も、たぶん同じなのだ。それを放っておけないだけ。相手が子どもでも、年寄りでも、魔獣でも――わたしにできるのは、いつだってそれだけだった。


ふと、背後を振り返る。村の人たちが、そろって口をぽかんと開けて、こちらを見ていた。


それはそうだ。ついさっきまで牙をむいていたA級魔獣が、聖女様の前で、すっかり飼い犬みたいになってしまったのだから。


レフがふらふらと近づいてきて、かすれた声で言った。


「あんた、騎士団でも倒せなかった魔獣を、飯ひとつで手なずけたのか」


「手なずけてないですよ。お腹がすいてただけです。ごはんをあげたら、機嫌が直っただけ」


レフは、両手で頭を抱えた。


「いや、ふつう、できねえから。それ」


そうかな。お腹がすいた子に、ごはんをあげる。怪我した子の、傷を洗う。どっちも当たり前のことだと思うけれど。


それからシロは、あっさり村に居ついた。最初こそ、村の人たちはこわがっていた。そりゃそうだ、伝説のA級魔獣なのだから。けれどシロは、驚くほど人懐っこかった。


昼は子どもたちと転げまわり、ニナを背に乗せて畑を一周し、夜は村の入り口でじっと寝ずの番をする。森からほかの魔獣が出ても、シロがいれば近づいてこない。気づけばシロは、村でいちばん頼れる守り手になっていた。


村の人たちがシロにすっかり慣れたのには、きっかけがあった。


ある日、小さな男の子が転んで泣いていた。すると、シロがのっそり歩み寄って、その子の頬をぺろりとなめたのだ。周りの大人たちが、ひっと息を呑む。


けれど、なめられた当の男の子はきょとんとして、それから、けらけらと笑いだした。


「くすぐったい!」


その一声で、村の人たちの肩から、すうっと力が抜けた。ああ、この獣はこわくないんだ――と、みんなが同時に胸をなでおろした瞬間だった。


わたしはといえば、相変わらずシロを犬扱いだった。


「シロ、ごはん」「シロ、伏せ」「シロ、足が泥だらけだよ。洗うよ」


そのたびに、村の人たちがひやひやした顔をする。伝説のA級魔獣に、飼い犬みたいに「伏せ」と命じる領主。みんなにとっては、それすらも奇跡の一種に見えるらしかった。


問題は、この話が村の外へ漏れはじめたことだ。


村が立ち直り、余った作物や保存食を、近くの村と取引するようになった。人の行き来が増えれば、噂もいっしょに歩いて広がる。


「ロウデンに魔力ゼロの聖女がいるらしい」


「死に村を生き返らせて、A級魔獣まで従えたそうだ」


ある日のこと。塩を売りに来た行商人が、村の入り口でシロと鉢合わせて腰を抜かした。


「ば、化け物っ!」


「あ、その子は大丈夫ですよ。シロ、お客さんだよ。おすわり」


シロがちょこんとおすわりをすると、行商人は口をぱくぱくさせたまま、しばらく固まっていた。それから恐る恐る村のなかを見わたして、今度は別の意味で目をむいた。清潔な水路。実りきった畑。元気に走りまわる子どもたち。


「ここは……本当に、あの墓場のロウデンか?」


やがて荷を背負い直し、逃げるように帰っていく。その背中を見送りながら、わたしはいやな予感を覚えた。この人はきっと、行く先々で、この村のことをしゃべる。


案の定だった。数日後、その行商人は隣町の酒場で、身振り手振りをまじえてまくし立てていたという。


「聞いてくれ! ロウデンの聖女様はな、あの霜牙狼を、指一本で従えなさったんだ!」


尾ひれのついた話は、通りすがりの旅人から旅人へ、遠くへ、遠くへと運ばれていった。そうしてわたしの二つ名が、また一つ増えていた。


「霜牙を従えし聖女様」


白湯の聖女に、実りの聖女。そこへきて、霜牙を従えし聖女。ならべてみると、だんだん、ずいぶん強そうになってきた。中身は、犬に「伏せ」を教えただけの家庭科教師なのに。


その夜、シロはわたしの足元で、まるくなって眠っていた。大きな体で、すうすうと寝息を立てている。ついこの前まで村じゅうを震え上がらせた伝説の魔獣が、すっかり安心しきった顔をしていた。


この子も、ニナと同じだ。お腹がすいて、痛くて、ひとりぼっちだった。ただ、それだけ。ごはんをあげて、傷を手当てして、名前を呼んだ。たったそれだけのことで、こんなにもなついてくれる。


――本日のお品書き、達成。


傷の消毒と、温かいシチュー。魔獣使いの秘術でも、聖なる加護でもない。怪我を洗って、ごはんをあげただけ。


すごいのはシチューだ。すごいのは、温かいごはんだ。わたしじゃない。そう言っても、やっぱり誰も聞いてくれないのだけれど。


翌朝、村の広場を通りかかって、わたしは思わず足を止めた。


いつのまにか広場の隅に、木を組んだ小さな祭壇がしつらえられている。その上には、うやうやしく三つのものが並べて祀られていた。灰と獣脂で村人と煮た手づくりの石鹸――聖泡。ニナやテオを救った寸胴鍋――聖釜。傷や床をこすった、ただのたわし――清めの具。


朝の光を浴びて、鍋とたわしが、なんだかありがたそうに鈍く光っている。


「……えっ」


思わず声が漏れた。台所の道具が、三つそろって、神様みたいに祀られている。


これを、村の事情を知らない誰かが、よそから来て見たら――いったい、どう思うんだろう。


背筋を、つめたいものがすうっと撫でていった。足元のシロが、なにも知らずに、のんきなあくびを一つした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る