第29話:今更お風呂で恥ずかしがるのは、ご都合主義過ぎる!

 春休みも終わろうとしているある日の夜。

 家のお風呂場の方から、か細く、でもどこか必死な蒔菜まきなの声が聞こえてきた。


依都華よつか〜お願い〜、タオルが無いの〜!」


 あたしは弾かれたようにソファから立ち上がった。

 手のひらに、じわりと嫌な汗がにじむ。


 ……聞いたことのある、このパターン。

 デジャブなんて生易しいものじゃない。

 あたしの脳裏に、あの雨の日にやらかした、蒔菜の『お風呂場すりガラスドア全開事件』の映像が、勝手に再生された。


 あの時は、ただ事じゃない悲鳴に慌てて脱衣所に猛ダッシュしてドアを開けたら、湯気の中に立つ無防備極まりない姿を直視することになったのだ。


 今思い出しても、前科がつくんじゃないかってレベルの破壊力。

 また、見てしまったら、今のあたしはどうなってしまうんだろう……。

 バスタオルを抱えたまま、意を決して脱衣所の引き戸を開けた先。

 浴室のすりガラスのドアは、一ミリの隙間もなく、ピッチリと閉じられていた。


 浴室の中の温かい明かりに照らされて、蒔菜の輪郭が全体的に、すりガラスのドア越しにぼんやりと浮かび上がっている。

 ……うん、見えそうで見えない絶妙な不透明度。

 前科回避、助かった……! と胸を撫で下ろした。


「……お〜い、蒔菜、持ってきたよ?」

「……ありがと、洗濯機の上、置いておいて」

「うん? もう終わったんでしょ? ほら」

「いいから、置いておいて」


 なんだ? 急に。

 前は全部開けっぴろげで受け取ったはずなのに。


「いや、あたしもこのまま入るからさ、交代し……」

「ダメ、まだリビングに居て」

「いやいや、どしたん……?」


 すりガラスのドアが少しだけ開かれ、蒔菜がそこから顔を覗かせる。


「……依都華……その、付き合ったら、なんか、恥ずかしいかも……っ」


 その瞬間、あたしの手からタオルが滑り落ちそうになった。


 半分すりガラスの向こうから聞こえる声は、いつもより少し、うわずっていた。

 よく見れば、その向こうの不透明な輪郭が、もじもじと、落ち着かない感じで小さく揺れている。

 

 待って?


 あたしは心の中で、全力のツッコミを入れた。

 

 今更すぎない?!

 

 この家に二人きりで住み始めてから、何回か平然と無防備な姿を見せつけてきたじゃんか!


 バテてキャミソール一枚で並んで髪を拭いた時も、チョコで酔っ払ってはだけたブレザーのままあたしにキスしてきた時だって、蒔菜はいつだって平気そうな顔をしてたのに!

 

 確かに、付き合い始めてからこの数ヶ月はそういうラッキースケベ的なイベントはなかったから、久々だなとは思ったけど?!


 ……いや、でも。

 

 恋人になったから、恥ずかしい。

 その言葉の意味を、熱くなり始めた頭の中で、もう一回繰り返してみる。


 今までは『家族みたいなもの』だから、『幼馴染』だからっていう言い訳の盾があった。

 だけど、今は――『そういう相手』になった、ってことで。

 お互いを、はっきり『恋人』として、特別な相手として意識してしまった、ってことで。


 ……あ。

 なんか、じわじわ、こっちまで恥ずかしくなってきた。

 

 だって、キスする時はあんなに何度も何度も唇を重ねてくるくせに。

 服が一枚ないだけで、すりガラス一枚を挟んだだけでこんなに照れるなんて、ずるいだろ。


 ……っていうか、ずるいだろぉぉお……!!

 

 付き合う前は、それこそあの夜に「一緒に入っちゃいましょ?」なんて平然と言ってきたくせに。

 恋人になった途端にこれって、意識しすぎで逆にえっちすぎるだろぉぉお……!!

 

 顔面が急速に沸騰していくのが自分でもはっきりと分かった。


「ちょ、ちょっと、依都華、固まってないで、置いたら出てって!」

「あ、はい……」


 付き合う前の方が、ある意味、無防備だった。

 付き合ってから、なぜか、距離が、変な方向に開いていく。

 いや、開いているんじゃない。

 一つ一つの動作の持つ『意味』が、重くなりすぎているっていうか。


「依都華……その、タオル、ありがと……」


 そう言うと、すりガラスのドアはまたピッチリと閉ざされた。

 

 またやられた。

 今回は別の意味で。

 

 あたしはバスタオルを洗濯機の上に置き、リビングに戻るとへなへなとソファに崩れ落ちた。



 ◇◆◇◆◇



 蒔菜のお風呂上がり、リビングのソファに並んで座る。

 ……いや、『並んで』とは言えないかもしれない。

 いつもなら肩が触れるくらいピタリとくっついてくるくせに、今日の蒔菜はクッションをぎゅっと抱きしめたまま、あたしから拳ふたつ分くらい離れた場所にちょこんと座っていた。


 部屋着のTシャツの裾をぎゅっと引っ張るようにしている蒔菜からは、髪の毛からまだほんのりとシャンプーの甘い匂いが漂っている。


「お風呂……上がったけど」

「うん……」


 お互いに視線が泳いで定まらない。

 そんな中、蒔菜がふと思い出したように口を開いた。


「ね、依都華。前に約束した、スーパー銭湯……」

「うん……」

「あれ、逆に難易度上がったかも……」

「……上がってる、かも」

「でしょ……」


 二人して、妙に生々しくて熱い沈黙が流れた。


「じゃあ、行くの……いつになるのかしら……」

「理性が完全に消え失せたら、かなぁ……?」

「ちょっと、依都華、それってどういう意味よ……!」


 蒔菜がソファのクッションを胸元に抱きしめたまま、耳まで真っ赤にして睨みつけてくる。

 付き合う前より、心も身体もずっと距離が近くなったはずなのに。

 なんでか、一緒にお風呂に行けそうな日は、どんどん遠くなっていく気がした。

 

 いや、まぁ、ある意味、良い意味で……。



 ◇◆◇◆◇



 だけど、この時のあたしは、まだ気づいていなかった。

 明日からは、いよいよ高校三年生。

 進級という節目を迎えたあたしたちの関係に、これまであたしを散々振り回してきた『ご都合主義』すらも、手のひらを返していくなんて、この時のあたしは想像すらしていなかったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る