第18話 ノクシアの始まり
【ノクシアの始まり】
手の上にあるのは、一人の人間の魂だった。
金色の柔らかそうな球体が、ルシアンの手の上で小さく浮き沈みを繰り返す。
強く息を吹きかけてもそこに止まり続け、裁定の時を待っているようにも見える。
「ルミア…」
ルシアンの前妻である、ルミアの魂。
当時からデスルーラーとして君臨してきたルシアンは、妻の魂さえも他と同様、平等に裁く立場にあった。
「私の幸せを奪った、憎き者…」
ルミアは誰も殺してはいない。
ただ、ルシアンに幸せを与えなかった魂、それだけだった。
個人の憎悪はデスルーラーの裁定に影響することはなく、それはルミアの魂とて同じはずだった。
「ルシアン様?」
ルミアの魂と向き合うこと数時間、気づけば外には夜の帳が下りていて、ルミアの侍女であったオリエが、執務室のドアを細く開けてルシアンを呼んでいる。
「オリエか…入りなさい」
「よろしいのですか?」
「ああ。お前も特級だ、見えるだろう、このルミアの魂が?」
オリエはおずおずと室内に入り込み、ルシアンの隣に立った。
「これが、ルミア様の…?」
「そうだ」
「さようでございますか…これが…」
涙に咽ぶオリエは、その魂を借りられないかと言ってきた。
突拍子もないことを言うなとルシアンは笑うが、彼女は真剣そのものだ。
「私は、ルミア様にはとてもよくしていただきました…だから、せめて魂の刻限まで、きちんとお別れがしたいのです」
ルシアンはその頼みを断れなかった。
愛するオリエの言うことであれば聞き入れてやりたかったし、癪ではあるが、ルミアがオリエを気にかけていたことは、承知していたからである。
二日後、オリエが「お別れが済みました」と言って、ルミアの魂を寝室に返しに来た。
金色の球体は透明な水晶の中に閉じ込められており、オリエが自らの結界を破ってルシアンの方へと差し出してくる。
「気は済んだのだな、オリエ?」
「はい」
「では、送ろう」
その時だった。
ルシアンの脳内に急激な頭痛が走ったのだ。
「ルシアン様!?」
オリエの声が遠くに聞こえ、ルシアンの頭にルミアの映像ばかりが入り込んでくる。
「こ、これは…魂の逆流…!?」
ルシアンが特級魔術師であれば、難なく防げた現象だった。
だが彼は当時からオリエの魔力を借りたデスルーラーであったため、混乱してしまった。
否、取り乱してしまった。
「ルシアン!」
可憐に笑う、天真爛漫なルミア。
見事な金髪に紺碧を宿す瞳を持つ、誰もが振り向く美しい女性。
雑誌のモデルだと言っても十分通じる彼女が、愛する夫の名を呼んだその時、ルシアンは彼女の魂を手の上でぐしゃりと握り潰してしまっていた。
「ルミア様!」
ルシアンの手で散り散りになった魂は、オリエの手の上に落ちた。
そして、その中の数片の魂は、本来送るべきでなかったバルカスと呼ばれる地獄に向かい、時を同じくしてセラフィアと呼ばれる天国から落下してきた、とある人物の魂と衝突してしまった。
「ルシアン様…あれは…?」
ルシアンの寝室の窓から、空に亀裂が入っているのが見える。
その隙間からは毒々しくも黒い霧が漏れ、亀裂の向こうに新しい世界を作っていた。
「私は一体何をした…?」
「ルシアン様?」
「そうか…私がルミアを憎んでいたから、神が裁きを下してくださった!これはいい、私はとうとう神までもを味方につけたのだ!」
ルシアンが狂気に満ちた笑みを浮かべる中、オリエは手にルミアの魂を持っていた。
こうして、ルシアンを創生主とする闇の世界ノクシアが誕生したのである。
「まったくもってくだらない」
リュクサは読み終えたルシアンの著書を、テーブルの上に置いた。
「どうしました、リュクサ?」
「ノクシアの始まりが書かれていた」
「ノクシアの?先日お会いしたレヴィンという男の住む世界ですね?」
ノエルもリュクサに教わったり、書を読んだりして魔術の世界に詳しくなりつつある。
だから、リュクサが口にする魔術用語についても、難なくついていけるようになっていた。
「そうだ。まあ、ノクシアの歴史なんて大したことはないと思ってはいたが、本当だったとは…」
天界セラフィアと、地獄のバルカス。
ヴィータにとって、この二つの異世界があれば、魂はちゃんと裁定されるはずだ。
少なくとも理屈の上ではそうであり、じゃあノクシスは何をするのかと疑問だった。
「ノクシアには、住人が二人しかいない」
「それだけ、ですか?」
リュクサは、レヴィンと初めて会った時に、彼の魂を盗み見したのだと明かした。
「そう、それだけだ。しかも、ノクシア自体不完全な世界だし、そこに住まう二人の肉体もまた然りだった」
酸素の薄いノクシアに暮らす二人は、ヴィータで長く活動できない。
消化器官がないから、食事をとるのではなく、ノクシアの腐敗臭に満ちた空気で肺を満たし、栄養源としているらしい。
「確かに、レヴィンという男はかなり痩せていましたね」
ノエルがメガネの中央を指で押し上げる。
「それで、リュクサは彼とはどこでお知り合いに?」
「エスタリア行きの船の中で。魔力の濃度は父上のそれよりも上だった。手練れというよりは、元々そういう方面への素質があるんだろう」
とはいえ、この書を読んだことで、どうして父がルミアの魂をないがしろにしたか、そしてどうしてオリエが同じ人物の魂の一片を持っていたかについては納得できた。
要するに、ルシアンが魔力を制御できずに引き起こしてしまった、魂の誤送というやつだ。
「デスルーラーにあってはならないのが、魂の誤送だ」
「はい」
「だが、父上はそれをやってしまった。そして…また魔力を暴走させ、今度はセリーヌを殺した」
ノエルの眉間に、深いしわが寄る。
「この魂をどう裁定するか…」
「そもそも、誰が裁定するのです?」
そこで、リュクサは言葉を失った。
そうだ、誰が正しい裁きを与えるのだろう。
ルシアン亡き後のデスルーラーがやるのだろうが、そもそも誰がその地位に就くのか。
序列で言えばアステルなのだが、生憎彼は一級魔術師ではない。
「リュクサ、あなたなのでは?」
「まさか…」
そんなこと、考えたこともなかった。
しかし、考えておくべきことなのではないだろうか。
どう考えても、アステル一人にできる仕事ではない。
残酷なようだが、彼はどこまでも一級魔術師でしかないのだ。
世間で言うところの「ちょっとした魔法使い」という位置づけなのだ。
「リュクサ、ノエル!もうすぐ港に着くよ!」
アネモネの声に弾かれ、リュクサとノエルは同時に船の進行方向を見つめる。
視界の先には、ヴィータ内でも最先端だと言われる、高層ビル群が見えている。
「はあ…私もようやくお役御免かぁ…なんか、びっくりだね?」
「モネ?」
「ノエルがリュクサの専属医になったり、セリーヌと出会ったり…色んなことがあって」
本当に色々なことがあった。
リュクサ自身、まだセリーヌの死を受け入れられていないが、しばらく会っていないアステルに会うのは楽しみだ。
「そして、父上に裁きを下す…」
どういう方法で、どんな裁きを下すかについては、まだ考えていない。
だが、ルシアンは幼い頃からリュクサの魔力を搾取し続け、ルミアの魂を誤送し、ノクシアに始まりをもたらし、そしてセリーヌを手にかけた。
「魔力を自在に操れない魔術師が、デスルーラーをやっている…それが、そもそもの間違いなのかもしれないな…」
リュクサの呟きにも近い独り言を聞き、ノエルもまた心の中で「そうかもしれませんね」と相槌を打った。
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