第8話 対価

大神針は動かなかった。


「妻の名前を出せば、俺が頷くとでも思ったか」


「頷くとは思っていません」劉王鬼は静かに言った。「ただ、聞く耳くらいは持っていただけるかと」


春華が懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に滑らせた。大神針はそれをすぐには手に取らなかった。目だけを落とす。


写っているのは女だった。頬がこけ、髪も短く切られている。だが見間違えようがない。京子だ。写真の隅、壁に貼られたカレンダーには先月の日付に丸がついている。誰かが意図的に写り込ませたものだろう。日付を疑う余地をなくすために。


「合成だと思いますか?」劉王鬼が言った。「疑うのは結構です。ただ、それなら次を見てください」


春華がもう一枚、折りたたまれた紙片をテーブルに置いた。大神針はようやくそれを手に取り、開いた。手書きの文字が並んでいる。癖のある、右上がりの筆跡。京子の字だ。三年間、一度も目にしていない字だった。それでも見た瞬間、迷わずそれと分かった。


その文面には、大吾が生まれた日の朝、大神針が寝坊した京子の代わりに味噌汁を焦がした話が書かれていた。焦げた匂いに気づいた京子が、病室のベッドの上で笑いながら「今日だけは大目に見てあげる」と言ったこと。あの朝、キッチンで交わされた何気ない会話だ。病院にも役所にも記録は残っていない。大神針と京子、そして生まれたばかりの大吾以外は、誰も知り得ない話だった。


大神針は紙片を握りしめた。指先がわずかに震える。それを気取られまいと、彼はゆっくりと紙片をテーブルに戻した。


「京子は生きている」大神針は言った。疑問形ではなかった。


「生きています」劉王鬼が言った。「今は僕らの庇護下にいる、とだけ言っておきましょう。それ以上の詳細は、貴方が仕事を引き受けてから」


「取引か」


「取引です」劉王鬼は微笑んだ。「僕はこういう仕事しか知らない。悪く思わないでください」


「三年間、彼女はどこで何をしていた」大神針は聞いた。


「その質問にお答えする義務はありません」劉王鬼は言った。「順番があるんです。物事には」


「なぜ、お前らが京子を匿っている」


「それも、今はお答えできません」劉王鬼は静かに首を振った。「ただ、ひとつだけ言えることがあります。僕らが彼女を見つけた時、彼女は既に、命を狙われていました」


大神針の眉がぴくりと動いた。


「誰に」


「それも順番の話です」劉王鬼はそう繰り返した。「焦る気持ちは分かります。でも、僕らを急かしても何も出てきません。世の中はそういう風にできている」


春華が横から口を挟んだ。「感謝してほしいくらいなの。放っておけば、あの女は三年前にとっくに死んでいた」


「その恩を、これから利子付きで返せというわけか」大神針は言った。


「利子ではありません」劉王鬼が言った。「対価です。僕らは慈善事業をしていない。それだけのことです」


大神針は二人の顔を交互に見た。嘘をついている様子はない。少なくとも、彼らはそう見せることに長けている。だが、目の前に置かれた写真と紙片の重みは、演技だけでは作り出せないものだった。


大神針は写真と紙片を握ったまま、しばらく黙っていた。店内では相変わらずサラリーマンたちが煙草をくゆらせ、商談を続けている。窓の外を路線バスが通り過ぎていく。世界は何も変わっていないように見える。だが大神針の中では、何かが決定的に変わってしまった。三年間、蓋をしてきた箱の鍵が、今、目の前の男によって差し出されている。


「今すぐ返事はしない」大神針は言った。


「構いません」劉王鬼は頷いた。「急いてはことを仕損じる、と言いますからね。ただ――」


劉王鬼は杖に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。春華がその肘を支える。


「あまり悠長にもしていられません。彼女の安全は、僕らの機嫌次第という部分もありますので」


「脅しか」


「事実です」劉王鬼は表情を変えずに言った。「僕は脅しと事実を、あまり区別しません。区別する意味を感じないんです」


春華が写真と紙片をしまおうと手を伸ばした。大神針はそれを許さなかった。手のひらで押さえ込む。


「これは貰っていく」


劉王鬼は肩をすくめた。それが答えだった。二人はルノアールを出ていった。ドアに付いたベルが乾いた音を立てる。窓の外、二人を乗せた黒い車が滑るように走り去るのが見えた。


大神針はしばらくそのまま座っていた。ミックスサンドはひとくちも減っていない。コーヒーはすっかり冷めていた。それでも彼は一口飲んだ。苦味だけが舌に残った。


***


その夜、大神針は保育園に大吾を迎えに行き、いつも通りの夕食を作った。米を炊き、味噌汁を作り、魚を焼いた。手順はいつもと変わらない。だが、鍋をかき混ぜる手だけが、少しだけ遅かった。


「パパ、今日は静かだね」大吾が言った。


「そうか」


「怒ってるの?」


「怒ってない」


「ママのこと、考えてたの?」


大神針の手が止まった。大吾はたまに、こういう不意打ちをしてくる。母親のいない生活の中で、子供なりに何かを感じ取っているのかもしれない。


「……なんで、そう思う」


「なんとなく」大吾は箸で味噌汁の具をつつきながら言った。「パパ、たまにそういう顔してるから」


大吾はそれ以上聞かなかった。子供なりに、聞いてはいけない空気を察したのかもしれない。父親のそういう部分に、息子はいつも敏感だった。食卓を挟んで向かい合う二人分の茶碗を見ながら、大神針はふと写真の中の京子の顔を思い出した。


夕食のあと、大吾は風呂に入り、歯を磨き、いつも通りぐずりながら布団に入った。大神針は隣の部屋で、京子の写真と紙片を何度も見返した。あの筆跡は間違いなく本物だ。三年前、生きているのか死んでいるのかすら分からなかった女の字だ。


戦場では、生死不明の人間は死んだものとして扱う。そうしなければ前に進めないからだ。大神針はこの三年間、京子のことをそういう風に処理してきた。心のどこかに箱を作り、蓋を閉じ、開けないようにしてきた。悲しみですら、贅沢品だった。


その蓋が、今夜、こじ開けられた。


大神針は静かに大吾の部屋に入った。豆電球の薄明かりの中、大吾は布団を半分蹴飛ばして眠っている。口を半開きにして、腹を上下させながら。母親に似て、寝相も寝起きも悪い。


大神針はしゃがみ込み、蹴飛ばされた布団をかけ直した。大吾の頬に触れる。柔らかく、温かい。この温かさを守るために、これまで銃を捨て、赤色灯を振り、頭を下げてきた。


俺がここで何もしなければ、何も変わらない。今のままでも、大吾は育つ。米を炊き、味噌汁を作り、保育園に送り迎えをする。それだけの生活は、続けられる。


だが、それだけでいいのか。


大神針は自問した。答えはとうに出ていた。


俺の目的は、ひとつしかない。


京子を取り戻す。そして大吾と三人で、朝メシを食う。


それだけだ。単純で、馬鹿馬鹿しいくらいに即物的な望みだ。世界平和でもなければ、正義の実現でもない。ただ、三人分の茶碗と箸が並んだ食卓――それだけが、大神針の欲しいものだった。この三年間、その簡単な望みすら口にすることを、彼は自分に禁じてきたのだ。


大吾の寝息を聞きながら、大神針は静かに立ち上がった。窓の外の街灯りが、大吾の寝顔にうっすらと影を落としている。


対価。劉王鬼はそう言った。何かを得るためには、必ず何かを差し出さなければならない。それが戦場の理屈であり、この国の平和な日常の下にも、同じ理屈が隠れて流れていることを、大神針は知っている。


慈円に相談することも考えた。あの坊主なら、何か気の利いたことを言ってくれるかもしれない。だが、大神針はその考えをすぐに捨てた。これは自分と京子と大吾、三人だけの問題だ。他人を巻き込めば、それだけ守るべきものが増える。守るべきものが増えれば、それだけ隙も増える。


一人でやる。それが一番、確実な方法だ。


居間に戻り、大神針は写真と紙片を古い封筒に入れ、押し入れの奥に隠した。京子の私物が入った段ボール箱の隣だ。三年間開けていなかった箱の隣に、新しい欠片がひとつ加わった。


翌朝、大神針は職場から劉王鬼の指定した番号に電話をかけた。呼び出し音が二回鳴り、傀儡が出た。


「お待ちしておりました」傀儡が言った。


「条件がある」大神針は言った。


「伺いましょう」


「殺しはしない。それと、大吾には指一本触れさせない」


「承知しました」傀儡は言った。少しの間があった。「それで――お返事は?」


大神針は窓の外を見た。曇り空の下、いつもと変わらない通勤の人波が流れていく。誰もが、それぞれの荷物を抱えて歩いている。大神針の荷物は、他の誰よりも重いだけだ。


「やる」大神針は言った。


「賢明なご判断です」傀儡は言った。その声には、勝ち誇った響きも、安堵の色もなかった。ただ事務的に、次の段取りへと進むだけの静けさがあった。


「詳しい話は、いつする」


「近いうちに。まずは準備からです」傀儡は言った。「貴方には、腕が鈍っていないことを証明していただく必要がある。ご自身のためにも」


「三年遊んでいたわけじゃない」大神針は言った。


「存じています。交通誘導と施設警備の三年間ですね」傀儡の声に、微かな皮肉が滲んだ。「ですが、狙撃と赤色灯では、使う筋肉が違う」


「なら、試させろ」


「その予定です。近日中に、場所と道具を用意します」傀儡はそう言って電話を切った。


大神針は携帯電話をポケットにしまい、防災センターの窓から街を見下ろした。眼下の交差点を、色とりどりの傘をさした人々が行き交っている。誰もが、それぞれの日常を生きている。誰の目にも、この国のどこかで中華マフィアの長が指を鳴らし、一人の元兵士の人生を再び戦場に引き戻そうとしていることなど、想像もつかないだろう。


三年間閉じていた扉が、今、確かに開いた。その先に何が待っているのか、彼にはまだ分からない。それでも、進む以外の選択肢は、もう残されていなかった。


大神針はコーヒーの残りを飲み干し、モニターの前の椅子に座り直した。午後の巡回まで、まだ少し時間がある。瞼の裏に、写真の中の京子の顔が浮かんだ。


京子。待っていろ。


心の中でだけ、彼はそう呟いた。

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