第5話 仮交際から始まる嫉妬

「それで、どうするの?」


 姫月さんは、僕の手を包み込むように優しく握った。


「私と仮交際をするの? それとも、しないの?」


 夕暮れに染まる彼女の顔は、いつもの氷の女王とは別人のようだった。


 冷たさなど少しも感じない。むしろ、僕の返事を待つ瞳には、隠しきれない期待と不安が入り交じっている。


 学校一の美少女が、僕のような人間と付き合う。


 たとえ仮だとしても、あり得ない話だった。


「ぼ、僕なんかでよければ……」


 そう答えた瞬間、姫月さんの眉が僅かに寄った。


「また『僕なんか』と言ったわね」


「す、すみません」


「今後は禁止よ。私が選んだ人を、あなた自身が軽く扱わないで」


 叱られているはずなのに、不思議と胸の奥が温かくなる。


 神木さんからは、夢を見るなと言われた。


 少し優しくされた程度で、自分と付き合えると思うなと嘲笑われた。


 けれど姫月さんは、僕が自分を卑下することさえ許さない。


「それでは、改めて」


 僕は一度息を吸い、彼女の瞳を見つめた。


「僕でよければ、お願いします」


「ええ。よくできました」


 姫月さんは満たされたように微笑んだ。


 仮の恋人ができただけとは思えないほど、幸せそうな表情だった。


 まるで、長い間叶わなかった願いが、ようやく報われたかのように。


「そういう素直なあなたも好きよ」


「す、好きって……」


「恋人なのだから、言っても構わないでしょう?」


「仮ですよね?」


「今は、ね」


 聞き間違いかと思うほど小さな声だった。


 僕が聞き返そうとすると、姫月さんは先ほどまでの柔らかな表情を隠し、いつもの澄ました顔へ戻ってしまう。


「明日からよろしく、私の彼氏さん」


「は、はい」


「それから」


 姫月さんは僕の手へ指を絡ませ、簡単には離れられない繋ぎ方に変えた。


「仮交際のことは、学校でも隠さないから」


「えっ?」


「神木蜜璃を見返すための交際なのに、隠していては意味がないでしょう?」


「それは、そうですけど……」


 学校中から氷の女王と呼ばれている彼女と、僕が交際している。


 そんな噂が広まれば、どうなるか。


 想像するだけで胃が痛くなってきた。


「安心して」


 僕の不安を見抜いたように、姫月さんが微笑む。


「誰に何を言われても、私があなたを守るわ」


「姫月さんだけに守られるのは、少し格好悪いですね」


「そうかしら?」


「姫月さんが困った時は、僕も守りたいです。仮でも恋人になったんですから、それくらいはさせてください」


 姫月さんが足を止めた。


「……本当に、あなたは」


「どうしました?」


「何でもないわ」


 顔を逸らした彼女の耳が、夕日のせいだけではなく赤く染まっている。


 僕は何か恥ずかしいことを言ったのだろうか。


 理由が分からず首を傾げていると、姫月さんは絡めた指へさらに力を込めた。


「絶対に離さない」


「手をですか?」


「……そういうところよ」


        ※ ※ ※


 翌朝。


 昨日の出来事を、簡単に忘れられるはずもなかった。


 神木さんから告げられた嘘の告白。


 僕へ向けられた嘲笑。


 そして、帰り道で姫月さんから申し込まれた仮交際。


 一日の間に起きたこととは思えない。


 朝起きて鏡を見た時も、すべて夢だったのではないかと疑った。


 けれど、短く整えられた髪も、立花さんと姫月さんに選んでもらった服も、昨日の出来事が現実だったと教えてくる。


 僕は制服の襟を整え、少し早めに家を出た。


 学校が近づくにつれ、登校する生徒の数も増えていく。


 校門が見えてきた頃、周囲からやけに強い視線を感じるようになった。


「ねえ、あの人って一年生?」


「知らない。あんな格好いい人、いたっけ?」


「転校生かな?」


「モデルみたいじゃない?」


 近くに芸能人でもいるのだろうか。


 僕は歩きながら周囲を見渡した。


 けれど、それらしい人物は見当たらない。


 むしろ、こちらを見ている女子生徒と何度も目が合った。


 もしかすると、髪に何かついているのかもしれない。


 不安になって前髪へ触れていると、前を歩いていた女子生徒がハンカチを落とした。


「あの、落としましたよ」


 僕はハンカチを拾い、彼女のもとへ駆け寄る。


「えっ、あ……ありがとう」


「いえ。汚れていないといいんですけど」


 地面に落ちていた部分を自分のハンカチで軽く拭いてから渡すと、女子生徒は顔を真っ赤にした。


「だ、大丈夫です!」


「よかったです」


 僕が笑いかけると、彼女は逃げるように友人のもとへ戻っていった。


「今の見た?」


「優しすぎない?」


「しかも笑った顔、すごくない?」


 背後からそんな声が聞こえたものの、自分のことだとは思わなかった。


 昇降口へ入ると、今度は重そうな荷物を抱えた教師が前から歩いてきた。


 積み上げられた資料のせいで、足元が見えていない。


「先生、持ちます」


「ん? いや、いいぞ。これくらい――」


「階段で転んだら危ないですから」


 半分ほど資料を受け取ると、先生は目を丸くした。


「悪いな。職員室まで頼めるか?」


「もちろんです」


 教室へ向かう前に荷物を運ぼうとした時、突然、腕へ柔らかな感触が絡みついた。


「おはよう、なつめくん」


 耳元で囁かれ、心臓が跳ねる。


 顔を向けると、姫月さんが僕の腕を抱きしめていた。


 学校では誰に対しても冷たく、他人を寄せつけない氷の女王。


 その面影はどこにもない。


 今の彼女は、好きな人と会えたことを喜ぶ、ごく普通の少女のようだった。


「ひ、姫月さん!?」


「恋人なのだから、朝の挨拶くらい普通でしょう?」


「それはそうかもしれませんけど、距離が近いです」


「嫌?」


 僅かに不安そうな瞳を向けられ、強く拒否できなくなる。


「嫌ではないです。ただ、周りの人が驚いているので」


「あの姫月さんが笑ってる……」


「腕を組んでる相手、誰?」


「彼氏なの?」


 昇降口にいた生徒たちのざわめきが、徐々に大きくなっていく。


 その中で、姫月さんは僕の持つ資料へ視線を落とした。


「それは?」


「先生が運んでいたので、半分持っているんです」


「これから教室へ向かうところでしょう? 放っておけばいいのに」


「でも、あの量を一人で運ぶのは大変ですよ」


「あなたには関係のないことでしょう」


「困っている人を見たのに、関係ないとは思えませんから」


 僕がそう答えると、姫月さんは黙り込んだ。


 怒らせてしまったのかと思ったが、その表情はどこか眩しいものを見るように柔らかい。


「昔から、そうなのね」


「昔から?」


「こちらの話よ。それより、私も持つわ」


「でも――」


「恋人が人助けをするのなら、私も手伝う。それだけよ」


 姫月さんは資料の一部を受け取ると、僕の隣へ並んだ。


 さすがに腕を組んだままでは運べないため、僕は内心で安堵する。


 ところが、姫月さんは空いたほうの手で、当然のように僕の袖を掴んでいた。


 職員室へ資料を届けたあと、僕たちは再び昇降口へ戻った。


 下駄箱は別の場所にあるため、姫月さんとは一度離れることになる。


「後で迎えに行くわ」


「教室が違うのに、わざわざ来なくても大丈夫ですよ」


「私が一緒にいたいの」


「……分かりました」


 あまりにも真っ直ぐに言われ、断る理由が見つからなかった。


 姫月さんが自分の下駄箱へ向かった直後、背後から遠慮がちな声が聞こえた。


「あれ……もしかして、なつめくん?」


 振り返ると、笹浪さんが立っていた。


 いつもどおり、整えられていない茶髪があちこちに跳ねている。眠たげな瞳を大きく見開き、僕の顔を凝視していた。


「おはよう、笹浪さん」


「お、おはよう……」


 笹浪さんは僕の周囲を確かめるように、ゆっくりと視線を動かした。


「本当に、なつめくん?」


「うん。髪を切っただけだよ」


「だけじゃない」


 彼女はふらふらと近づいてくると、僕の前髪へ手を伸ばした。


 触れる直前で躊躇し、指先を引っ込める。


「すごく、変わった」


「やっぱり変かな?」


「変じゃない」


 笹浪さんは激しく首を横へ振った。


「似合いすぎてる。前のなつめくんも好きだったけど、今はもっと……」


 最後の部分が小さく、よく聞き取れなかった。


「ありがとう。笹浪さんにそう言ってもらえると安心するよ」


「私に?」


「うん。笹浪さんは、僕に思ったことを正直に言ってくれるから。笹浪さんが似合うと言ってくれるなら、本当に大丈夫なんだと思える」


「……そういうこと、簡単に言わないで」


「何かおかしかった?」


「おかしくないから、困るの」


 笹浪さんは頬を赤くし、顔の横に跳ねた髪を何度も指へ巻きつけている。


 僕には、その言葉の意味が分からなかった。


 けれど、先ほどから彼女の髪に小さな糸くずがついている。


「少しじっとして」


「え?」


 僕は糸くずを取るため、笹浪さんの頭へ手を伸ばした。


 ところが彼女は僕が撫でようとしていると勘違いしたのか、逃げるどころか自分から頭を近づけてくる。


 そのまま手のひらが、柔らかな髪へ触れた。


「ご、ごめん。糸くずを取ろうとしただけなんだけど」


「……撫でてもいいよ」


「え?」


「昨日、辛いことがあったんでしょ」


 笹浪さんは俯いたまま、僕の制服の裾を摘まんだ。


「本当は私が慰めたかった。でも、どうすればいいか分からなかったから」


「気にしてくれていたんだね」


「当たり前」


「ありがとう」


 心配をかけていたことが申し訳なくなり、僕は彼女の頭をそっと撫でた。


「笹浪さんがそばにいてくれただけで、僕は何度も救われていたよ」


「……っ」


「一緒に昼食を食べてくれたことも、告白を心配してくれたことも、全部嬉しかった。僕にとって笹浪さんは、本当に大切な人だから」


 笹浪さんの体が大きく震えた。


 目元へみるみる涙が溜まっていく。


「さ、笹浪さん?」


「大切……?」


「うん」


「神木さんよりも?」


 問われて、一瞬返事に迷った。


 神木さんへ抱いていた感情と、笹浪さんへ抱いているものは違う。


 けれど、今の僕にとって、どちらを優先するべきかは明らかだった。


「今は、笹浪さんのほうが大切だよ」


 傷つけた人と、傷ついた僕を心配してくれた人。


 比べるまでもない。


 笹浪さんは両手で口元を覆った。


 頬を赤く染め、涙を浮かべながら、信じられないものを見るように僕を見つめている。


 僕としては友人として大切だという意味だった。


 しかし、その説明を口にするよりも早く、背後から冷気が押し寄せてきた。


「何をしているの?」


 空気が一瞬で凍りつく。


 振り返らなくても分かった。


 姫月さんだ。


「ひ、姫月さん」


 姫月さんは僕たちのもとへ歩いてくると、頭へ置かれた僕の手と、僕の裾を掴んでいる笹浪さんの手を交互に見た。


 先ほどまで僕へ向けていた柔らかな笑みは、跡形もなく消えている。


「その方は?」


「笹浪寿羽さんです。僕の友達で――」


「そう」


 姫月さんの視線が、笹浪さんへ移る。


「笹浪寿羽さんで合っているかしら」


「……はい」


「いつまで人の彼氏に触れているつもり?」


 その言葉が響いた瞬間、昇降口のざわめきが止まった。


 数秒の沈黙のあと、周囲から一斉に驚きの声が上がる。


「彼氏!?」


「あの姫月さんに?」


「嘘でしょ……」


「でも、さっき腕を組んでたよね?」


 たまたま通りかかった教師まで足を止め、僕たちの様子を見ている。


「ひ、姫月さん。もう少し声を抑えたほうが……」


「なぜ?」


「仮交際だと説明しないと、誤解されますよ」


「仮でも交際は交際よ。嘘は言っていないわ」


「そうですけど……」


 僕たちのやり取りを聞いていた笹浪さんが、俯いた。


 彼女の指が僕の裾から離れる。


「付き合ってるの……?」


「その、色々あって、昨日から仮に……」


「私には、何も言ってくれなかった」


「今日、話そうと思ってたんだ」


「昨日からなのに?」


 責めるような声ではなかった。


 だからこそ、胸が痛んだ。


「ごめん。先に伝えるべきだったよね」


「違う」


 笹浪さんの声が震える。


「そうじゃない」


 彼女は涙を流しながら、姫月さんを見上げた。


「認めません」


「何ですって?」


「二人が付き合ってるなんて、認めません!」


 普段の笹浪さんからは想像もできないほど大きな声だった。


「私が先だった」


「何が?」


「私が一番最初になつめくんと友達になって、一番近くで見てきた。お昼も毎日一緒に食べて、神木さんのことも、なつめくんが怖がってることも知ってた」


 涙が頬を伝っている。


 それでも笹浪さんは、姫月さんから目を逸らさなかった。


「私が一番に見つけたの。誰もなつめくんを見てなかった時から、私は見てた」


「たかが一か月前に転校してきただけでしょう」


 姫月さんの声が低くなる。


「私は、あなたよりずっと前からなつめくんを知っている。彼が誰より優しくて、自分のことより他人を優先する人だということも、何年も前から知っていたわ」


「何年も前……?」


 僕と笹浪さんの声が重なった。


 姫月さんは答えなかった。


 ただ、自分で口を滑らせたことに気づいたのか、僅かに唇を噛んだ。


 笹浪さんはその隙に、僕の手を強く握った。


「行こう、なつめくん」


「えっ?」


「二人で話したい」


 拒む間もなく手を引かれ、僕は昇降口から連れ出された。


「待ちなさい!」


 背後から姫月さんの声が聞こえる。


 それでも笹浪さんは一度も振り返らなかった。


        ※ ※ ※


 連れてこられたのは、いつも二人で昼食を食べている第二校舎の空き教室だった。


 教室へ入るなり、笹浪さんは扉を閉める。


 僕の手は、まだ強く握られたままだ。


「さ、笹浪さん。痛くない?」


「私は平気」


「僕じゃなくて、笹浪さんの手だよ」


「え?」


「こんなに強く握ったら、指が痛くなるだろうから」


 彼女の手を両手で包み、赤くなった指を確かめる。


「少し赤くなってる。冷やしたほうがいいかな」


「どうして……」


「何が?」


「どうして、今も私の心配をするの?」


「泣いている笹浪さんを放っておけないよ」


 僕が答えると、彼女の瞳から新しい涙が零れた。


「そういうところが、ずるい」


「ごめん」


「謝らないで」


 笹浪さんは僕の手を引くと、そのまま自分の頬へ触れさせた。


 涙で濡れた頬の熱が、手のひらへ伝わってくる。


「私が、一番に見つけたのに」


 いつもは虚ろな彼女の瞳から、穏やかな光が消えていた。


「皆は、今日になって格好よくなったなつめくんを見てる。でも私は違う。髪が長くても、服が地味でも、ずっとなつめくんだけを見てた」


「笹浪さん……」


「私だけが知ってたのに」


 彼女の指が、僕の手首へ絡みつく。


「誰かが困っていたら、自分が遅刻しそうでも助けること。自分のおかずを分けてくれること。私が何も話さなくても、嫌な顔をせず隣にいてくれること」


 一つずつ確かめるように、笹浪さんは言葉を重ねる。


「私だけのなつめくんだったのに」


「僕は、誰のものでもないよ」


「じゃあ、姫月さんのものでもない?」


「仮交際だからといって、物になるわけじゃないよ」


 安心させるつもりで答えた。


 すると、笹浪さんの瞳へ僅かに光が戻る。


「見た目が変わっても、付き合う人ができても、僕にとって笹浪さんが大切な人であることは変わらないよ」


「大切な人……」


「うん。誰が最初に見つけたかなんて、僕にはどうでもいい」


 僕は彼女の涙を指で拭った。


「いつもそばにいてくれた笹浪さんは、僕にとってかけがえのない人だから」


 次の瞬間、笹浪さんが僕の胸へ飛び込んできた。


「さ、笹浪さん!?」


 細い腕が僕の背中へ回される。


 制服へ顔を押しつけ、子供のように声を殺して泣いていた。


「よかった……」


「うん」


「私、まだ大切なんだ」


「当たり前だよ」


「絶対に、嫌いにならない?」


「ならないよ」


「ずっと、そばにいてもいい?」


「笹浪さんが嫌でなければ」


「……約束だから」


 彼女を落ち着かせるため、僕は背中をゆっくりと撫でた。


 僕の言葉はすべて、友人として伝えたものだった。


 しかし、笹浪さんにとっては違ったらしい。


 彼女の腕は次第に強くなり、逃げ道を塞ぐように僕の体を抱きしめている。


「もう誰にも、先に取らせない」


「え?」


「何でもない」


 笹浪さんは顔を上げると、涙に濡れたまま微笑んだ。


 その表情に光は戻っていた。


 けれど、僕の背中へ回された腕だけは、最後まで離れなかった。


 教室の扉の向こうに、姫月さんが立っていることにも。


 そして、僅かに開いた扉の隙間から、僕たちを無表情で見つめていることにも。


 僕は気づいていなかった。


「かけがえのない人、ね」


 廊下で姫月さんが小さく呟く。


「本当に、誰にでも優しいのだから」


 その声は穏やかだった。


 けれど、扉へ添えられた指は白くなるほど強く握り込まれている。


「だから、目を離せないのよ」


 この日を境に、僕の学校生活は完全に狂い始めた。


 自分では何気ないつもりで口にした言葉が、少女たちの心を救い、期待させ、そして際限なく重い感情を育てていく。


 けれど、そのことを理解するには、僕はあまりにも自分へ向けられる好意に疎すぎた。


―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


少しでも続きが気になった方は、これからの執筆へのモチベーションに繋がりますので、作品フォロー&★評価機能で応援いただけると大変励みになります!


すでに応援いただいている読者様には感謝しかないです! 頑張って続きを書いていきますので、よろしくお願いします!


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