網代の海
中務ジェルフ
第1話
網代へ続く道は、海に向かって落ちていく。
バスは一日に二本。終点で降りたのは、俺ひとりだった。崖に挟まれた入り江に、傾いた屋根が身を寄せ合っている。潮の匂いが濃い。濃すぎる。生臭い、と言ってもよかった。
叔父は、半年前にこの村へ来て、それきり消えた。警察は事件性なし、とした。海に落ちたんでしょう、と。叔父は泳ぎが達者だった。俺はそれを言わなかった。言っても、海は返事をしない。
漁協で、ヤスという男が、俺の身元を聞いて顔色を変えた。
「あんた、あの人の身内か」
「叔父を知ってるのか」
「……知らん。何も知らん」ヤスは目をそらした。「悪いこと言わん。次のバスで帰れ」
なぜ、とは訊かせてもらえなかった。ヤスは奥へ引っ込み、それきり出てこなかった。
夕方、海辺を歩いた。波打ち際に、魚が打ち上げられていた。何十匹も。どれも目が白く濁り、腹が膨れていた。腐臭はない。死んだばかりだ。なのに、ハエ一匹たかっていない。虫さえ、この海の獲物には手を出さないらしかった。
沖に、岩が一つ立っていた。鳥居の形をした、黒い岩。地元では鳥居岩と呼ぶのだと、あとで知った。潮が引いても、根元は見えない。どれだけ深いのか、誰も知らないという。
夜、宿はなく、網元だという老婆の家に泊めてもらった。トヨ、と名乗った。百に近い顔をして、背だけはまっすぐだった。
囲炉裏の火を挟んで、トヨは古い唄を、低く口ずさんでいた。盆に歌うものだという。歌詞は、土地の言葉で、半分も聞き取れなかった。ただ、繰り返される一節だけが、妙に耳に残った。
——起こすな、起こすな。海の底の、眠るものを。
「叔父も、この唄を聞きましたか」
トヨの手が、火箸を止めた。
「あの人はね」と、老婆は火を見たまま言った。「聞いただけじゃ、なかったよ」
それ以上は、何も言わなかった。俺がいくら問いを重ねても、トヨは囲炉裏の火を見つめたまま、二度と口を開かなかった。
その夜、俺は波の音で何度も目を覚ました。満ちては引く、ただの波の音だ。そう思おうとした。けれど、引いていくとき、波はいつも、何かを呼ぶように聞こえた。村のほうではなく、沖のほうへ。鳥居岩の、その下へ。
夜更け、ふと目を開けた。隣に敷かれていたはずのトヨの寝床が、もぬけの殻だった。手を触れると、夜具にはまだ、人のいた温もりが残っている。
表の戸が、細く開いていた。その隙間から、濃い潮の匂いと、低い唄が流れ込んでくる。あの盆唄だ。村のほうからではない。海の、ずっと沖のほうから、聞こえてくる。
——起こすな、起こすな。
俺は夜具をはねのけ、戸口へ歩いた。
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