『時刻表 - The Crossing Point -』④
大型機関車に牽引された特別客車は、夜を切り裂くような勢いで、闇の中を走り続ける。
客車の壁にしがみついていると、その加速は、いっそうすさまじく感じられた。
煤煙混じりの風が正面から吹き付けて、息が苦しい。レールの継ぎ目を乗り越えるたびに、突き上げるような振動が伝わってくる。
「ヒューイ!」
小脇に抱えられたままのダリアンが、髪を押さえながら不機嫌そうに叫んだ。
「いつまでこんなところにしがみついているのですか。早く中に入るのです!」
しかし、片手で客車の手すりにつかまったまま、ヒューイは苦々しい表情を浮かべていた。
「それが……少し面倒なことになってるみたいだ」
「面倒とは何ですか?」
「車両の扉に鍵がかかってる。このままだと中に入れないな」
ヒューイが、唯一自由な左足で客車の扉を蹴飛ばすが、堅牢な作りの扉はびくともしない。
ダリアンが面倒くさそうに顔を上げてヒューイを見た。
「すると私たちはどうなるのです?」
「どこかの駅に停まるまで、このまま待ってないといけないんじゃないかな」
そう言ってヒューイは、小さく肩をすぼめた。
「なっ……」
ダリアンが絶句する。
「なぜ私がこのクソ寒いところで、列車にしがみついてなければならないのですか。おまえと違って私には、こんなフナムシのように乗り物の壁にしがみつく習性はないのです」
「僕にもないよ、そんな習性は」
ヒューイはうんざりと首を振った。
「それに、まずいな。駅を通り過ぎたから、列車がスピードを上げたみたいだ」
叩きつけてくる風に目を細めながら、ヒューイが唇を歪める。駅を通過していたときに比べ、列車のスピードは倍近くまで上がっているように思われた。
もうすでに人間が飛び乗れるような速度ではない。万一、ここから落下するようなことがあれば、無事では済まないのは確実だった。
「扉の鍵など壊せばいいではないですか。いつものボロ拳銃はどうしたのです?」
ダリアンが非難がましい瞳をヒューイに向けた。
「あいにくだけど、両手が塞がってるんだ。きみを放してもよければ、そうするけど」
「安心するのです。おまえが拳銃を使えないというのなら、私が代わりに使ってやるのです」
そういってダリアンが、ヒューイのコートの懐に手を入れる。
ヒューイが激しい焦りの表情を浮かべて、身体をよじった。
「やめてくれ、ダリアン。きみ、拳銃なんか撃てないだろ。こんなところで暴発させられたら、二人とも助からないし、反動だって……」
「おまえごときに使える道具が、私に使えない道理がないのです。いいからさっさと寄越せ、このドケチ!」
「ケチとかそういう問題じゃない! やめろ、ダリアン、くすぐったいから……う!?」
無理やり拳銃を引き抜こうとするダリアンと、彼女に抵抗していたヒューイ。その二人の身体が、もつれ合うようにして、ふわりと浮き上がった。
そしてそのまま、客車の内側に倒れ込む。
ヒューイがしがみついていた扉がいきなり開いて、二人を中に招き入れたのだ。
「むぐ」
ヒューイの身体の下敷きになって、ダリアンがくぐもった悲鳴を上げた。それでもヒューイは敏捷な身のこなしで起き上がり、膝立ちになって周囲を見回した。
客車の内部は、外観から想像したとおり豪華だった。通路はガス灯で煌々と照らし出され、木目の美しい壁板は高級ホテルの調度品を思わせた。
そして通路の中央には、幼い少女の姿があった。
年齢はおそらく七、八歳ほど。混じりけのない長い金髪を三つ編みにした、可愛らしい少女だった。淡いグリーンのワンピースを着て、革製のローファーを履いている。特別客車に相応しい裕福な身なりだ。どこかの資産家の令嬢なのだろう。
「お兄さんたち、誰? こんなところで、何をやってるの?」
列車内に転がり込んできたヒューイたちを見下ろして、少女はどこか楽しそうに訊いてきた。
何から説明するべきか一瞬ためらったあと、ヒューイは投げやりに微笑んだ。
「やあ。こんばんは」
「こんばんは」
クスクスと笑いながら少女が挨拶を返してくる。得体の知れないヒューイたちの姿を見ても、まったく動じている様子がない。
ヒューイはコートの埃を軽くはたいて、ゆっくりと起き上がった。
内側から鍵の開いた客車の扉を見やって、息を吐き、
「きみが開けてくれたのか。助かったよ」
「どういたしまして。ねえ、どうしてこんなところにしがみついてたの? そんなことをして、楽しいの?」
少女が青い目をきらきらと輝かせて訊いてくる。ヒューイはぞんざいに肩をすくめ、
「まあまあ、かな……なかなかスリリングな経験だったよ」
「ふうん」
少女はますます愉快そうな表情になった。
「お兄さんたち、面白い人ね。列車に乗り遅れたの? それで慌ててしがみついたとか?」
「まあ、そんなところかな」
そう言ってヒューイは、倒れたままのダリアンに手を貸した。
ヒューイに踏まれてうつ伏せに倒れていた彼女は、いつもに増して不機嫌な表情を浮かべ、
「なんですか、この生意気なチビっ子は?」
八つ当たり気味に金髪の少女を睨んでそう言った。
「チビっ子?」
金髪の少女は、驚いたように目を大きくして、それから耐えかねたようにクッと吹き出した。そしてお腹を押さえて大声で笑い出す。
ダリアンは更に機嫌を悪くして、低く唸った。
「何がおかしいのですか?」
「だって、チビっ子にチビっ子って言われるなんて。私のほうがあなたよりも背が高いのに」
「なっ……なにをぬかしやがるのですか、このドチビ」
怒りと屈辱で、ダリアンは肩を震わせる。
「どう見ても私のほうが背が高いのです。おまえの目は節穴ですか!」
「うそ。私のほうが、こんなに高いわ」
金髪の少女はそう言って、うんと背伸びしてみせた。そうすると、たしかに彼女のほうがダリアンよりも背が高く見えた。
「
ダリアンも負けずとブーツの爪先で背伸びする。二人は足をふるふると震わせながら、額をぶつけ合った。
「そういうことをやってる時点で、どっちも子供だと思うけど」
呆れたような表情で、ヒューイがこっそりと独りごちる。
「ところでさ、きみ……」
「ケイ・ツーよ」
ヒューイの呼びかけを遮って、少女が言った。
「……ケイ・ツー?」
怪訝顔で訊き返すヒューイに、彼女は得意げに笑ってみせた。
「私のイニシャル。知らない人に本当の名前を教えちゃいけませんって、ママに言われてるの」
「ああ、なるほど。
そうよ、と少女は頷いた。幼いわりに、彼女の受け答えは驚くほどしっかりしている。躾がいいから、というよりも、基本的に頭がいいのだろう。
背格好のよく似た二人だが、彼女たちの雰囲気はまったく正反対だった。無表情な黒衣の少女に対して、ケイ・ツーはくるくると表情が変わる。一瞬たりとも、じっとしている瞬間がないかのようだった。
「お兄さんたちは?」
小鳥のように首をかしげて、ケイ・ツーが訊いた。
「僕はヒュー・アンソニー・ディスワード。ヒューイでいいよ。彼女は、ダリアン」
わかったわ、と頷いて、金髪の少女は微笑んだ。
「よろしくね、ヒューイ。お子様のダリアンも」
「ぬぐ……」
ダリアンがぎしぎしと歯ぎしりするが、ケイ・ツーは、それを見て楽しそうに目を細める。
「ところで、ケイ・ツー。この列車がどこに向かってるのか、知ってたら教えてくれないか?」
「お兄さんたち、そんなことも知らずに飛び乗ったの?」
「僕の連れが、せっかちな性分でね」
ヒューイがとぼけた表情で首を振った。
ダリアンはふて腐れてそっぽを向いている。
ケイ・ツーはクスッと笑いながら頷いて、
「いいわ、教えてあげる。ウエスト・ハイランドよ」
「ウエスト・ハイランド?」
「ええ。明日の朝には着くんですって」
ムッ、と眉間にしわを寄せてヒューイが黙り込む。ウエスト・ハイランドは、王国の北岸。王都から見て、ほとんど国土の反対側に当たる土地だ。急勾配の多い山岳地帯だが、景勝地としても知られている。貴族や資産家の別荘も多かった。
「おまえはいつからこの列車に乗っているのですか?」
ダリアンが、ふと何かを思いついたように、奇妙な質問をした。
いくら王国の北の果てといえども、しょせん同じ国の中だ。寝台列車を使えば、ウエスト・ハイランドは一晩で移動できる距離である。ケイ・ツーは、不思議そうな表情になった。
「いつからって? 王都を出発したのは、昨日の夕方だけど?」
「昨日の夕方?」
ダリアンが、どこか不満そうに訊き返す。
「そうよ。うちのママ、またパパと喧嘩しちゃって……しばらく家には戻らない、伯母さんの別荘で暮らすって言い出したから、私もついて行ってあげることにしたの」
ケイ・ツーはそう告げると、少し大人びた態度で溜息をついた。
「でも、夜行列車って退屈ね。窓の外は真っ暗だし、お昼寝しすぎて眠れないし」
「それで、こんな時間に廊下をうろついていたのですか。チビっ子のくせに」
ダリアンが皮肉っぽい口調で言った。
「あら。列車の外にしがみついていたチビっ子に言われたくはないわ。おかげで少し面白かったけど」
金髪の少女は、澄ました顔で言い返す。そして、どこかうっとりとした表情になりながら、
「でも、そうね。どうせなら、もっと刺激的な事件が起きてくれたら嬉しいわ。たとえば殺人事件とか」
「殺人事件?」
あどけない少女の不謹慎な言葉に、ヒューイが小さく顔をしかめた。
しかしケイ・ツーは屈託のない態度で、ちらりと舌を出し、
「そうよ。列車の中で他殺死体が発見されるの。それも密室殺人ね。だけど乗客の中に犯人がいるのは間違いないの。その犯人を、私が鮮やかな推理で解き明かすというわけ」
「アホです。アホなガキがいるのです」
ダリアンが、呆れ果てたように、ぼそりと言った。
ヒューイも薄く苦笑して、
「想像力が豊かなのはいいことだと思うけどね。まあ、少し探偵小説の読み過ぎかな」
むう、とケイ・ツーが唇を引き結ぶ。
「だったら教えてあげるけど、実はここだけの話、この列車には殺人犯が乗り込んでいる疑いがあるそうよ」
「殺人犯?」
思わず訊き返すヒューイを見上げて、ケイ・ツーは不敵に微笑んでみせた。
「途中の駅で乗りこんできた刑事さんが、車掌さんと話しているのを聞いたの。ジリイスという凶悪な殺人犯が、刑務所を脱獄して、王都始発の列車に乗り込んだ可能性があるって。車掌さんが何度も客室に検札に来たでしょう? あれは本当はその脱獄囚を捜していたのよ」
「その話、本当なのかい、ケイ・ツー?」
ヒューイが真面目な顔で確認する。
金髪の少女は迷いなく頷いた。
「もちろんよ。あの刑事さんたちが、嘘をついていたのでなければね」
ふむ、とヒューイは腕組みをする。
「どう思う、ダリアン? 正直信じがたい話だが……」
「構ってもらいたがりのチビっ子のただの妄想だと考えたほうが、自然なのです。ですが……」
ダリアンが歯切れの悪い口調で言い淀んだ。
ヒューイは、ダリアンの迷いに同調するように深く息を吐き、
「ああ。それを言うなら、この列車の存在自体が不自然なんだよな」
「
ダリアンは、客室の壁を乱暴に蹴りつけながら呟いた。
「幽霊? やっぱり面白いことを言うのね、あなたたち」
金髪の少女が、興味を惹かれたように目を大きくする。ヒューイは、そんな彼女を見返して、
「ケイ・ツー、この列車は普通の列車なのかな?」
「どういう意味?」
「そうだな。たとえば、本当は廃線になったはずの区間を、今夜だけ特別に走る臨時列車とか」
「ううん。そんな話は聞いてないわ。時刻表にも普通に乗ってたし」
きょとんとした表情で、ケイ・ツーは首を振った。
「時刻表……か」
ヒューイが表情を硬くした。
ふん、と荒々しく息を吐いて、ダリアンが客室の通路を歩き出す。
「行くのです、ヒューイ。こんな子供の相手をしていても、らちがあかないのです。それより時刻表を持っていたあのオッサンを捜すのです。あの干物なら、何か知っているはずなのです」
黒衣の少女の言葉を聞きつけて、ケイ・ツーが目をきらきらと輝かせた。
「人捜し? なんだか、楽しそう。私も行くわ」
「待った、ケイ・ツー……うっ!?」
その直後、激しい振動がヒューイたちを襲ってきた。
車輪が軋むような音を立て、豪華な客車が大きく揺れ動く。突然の衝撃にヒューイたちは大きくバランスを崩した。
それでもヒューイはどうにか踏みとどまったが、小柄なダリアンたちはひとたまりもなかった。二人でもつれ合うようにして廊下を転がり、壁にぶつかってどうにか止まる。
それでも身体が柔らかい子どもだったせいか、二人ともたいした怪我はなさそうだった。
「大丈夫か、ダリアン。ケイ・ツー」
絡み合った二人の少女を引き剥がしながら、ヒューイは彼女たちを助け起こした。
そのとき、声が聞こえてきた。喉の奥から絞り出すような絶叫だ。獣の遠吠えに似ていたが、明らかに人間の声だった。苦悶するような、不快な叫び声である。
「……なんですか、今の声は」
ダリアンが眉をひそめて呟いた。
「ラウンジカーのほうからだな」
廊下にかけられた客車の見取り図を眺めて、ヒューイが言う。
それを黙って聞いていたケイ・ツーが、突然勢いよく駆け出した。
「あ、待て。待つのです、チビっ子!」
ラウンジカーへと向かう彼女を、ダリアンが慌てて追いかける。
ヒューイは疲れたように溜息を洩らすと、仕方なく、彼女たちを追って走り出した。
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