『猫と読姫 - Eine Katze hat neun Leben -』②

 翌日も、少女は本を読んでいた。

 書架の前に置いた脚立の上に座って、彼女は昨日とは違う分厚い本をめくっている。


 暖かに燃える暖炉の前には、一人がけの小さなソファも置かれていた。

 そこは少女のお気に入りの場所だったが、彼女は今日に限っては、なぜかそこに近寄ろうとはしなかった。

 ソファの上ではふっくらとした尻尾の猫が、行儀良く座って少女を見上げている。

 ヒューイが連れてきたその猫は、ダリアンがどんなに嫌がってもなぜか彼女につきまとい、彼女が読んでいる本を興味深げにじっと見守っているのだった。


 やがてダリアンは、ガチャガチャと鎧を鳴らしながら脚立を降りて、窓際のサイドテーブルへと向かった。テーブルの上には、紅茶と、砂糖をまぶした揚げパンが置かれていた。


 熱い飲み物が苦手な彼女は、紅茶がぬるくなるのを待っていたのだ。

 ダリアンは、揚げパンの匂いを嗅ぐと、満足そうに頷いて、それに齧りつこうとした。そして大きく口を開けた姿勢のまま、ふと動きを止めた。


「…………」


 オッドアイの双眸が彼女のことを見つめていた。

 ソファに座ったままの猫の視線が、ダリアンの握る揚げパンに注がれている。


「なんですか、その目は」


 ダリアンが困惑気味に呟いた。

 もちろん猫はなにも答えない。ただ無言で、少女の握る揚げパンを見つめている。


「これは私のパンなのです。おまえにくれてやるぶんはないのです」


 ダリアンは、猫に向かって、言い訳するような口調で説得を試みる。

 もちろん猫はなにも答えない。

 しかし目を反らすこともなく、瞬きすらせずに少女の揚げパンをじっと見つめている。ダリアンは、それを無視して何度も揚げパンを口に運ぼうとしたが、そのたびに猫の視線に邪魔されて噛みつくことができずにいた。

 やがて彼女は苦々しげに溜息をつき、


「わかったのです……ほら、これをくれてやるですがゆえに、そのような浅ましい目つきはやめるのです」


 揚げパンをほんのひとかけらちぎって、猫のほうへと差し出した。

 猫は、そんな彼女のことを、しばらく身じろぎもせずに見上げていたが、


「なっ……!」


 突然、音もなく跳躍すると、弾丸のような勢いで少女の黒衣を駆け上がった。そしてダリアンの手に握られていた、大きなほうの揚げパンを丸ごと奪い去る。

 そのまま猫は揚げパンをくわえて、廊下へと向かって走り出した。


 ダリアンは、呆然とした表情で固まっていたが、

「なにをするのですか、この泥棒猫! そっちは私のぶんなのです。直ちに返還を要求するのです!」


 突然ハッと我に返って、猫を追って走り出そうとした。しかし何歩も進まないうちに、床の上に積み上げられていた本に蹴躓いて転倒する。

 絨毯に突っ伏したまま動かなくなるダリアン。

 猫は少し離れた場所で、悠然と揚げパンを食べ始めていた。

 黒衣の少女は憤然とした表情のまま、のろのろと手を突いて上体を起こす。


「大丈夫か、ダリアン」


 ちょうど部屋に入ってきたヒューイが、笑いをこらえているような表情で、憮然と床に座りこんだままの彼女に訊いた。

 ダリアンは憎々しげな目つきでヒューイを睨んだが、特になにか言い返そうとはしなかった。無言の視線で、早くあの猫を追い出せ、と訴えただけだ。


 ヒューイは小さく苦笑して、彼女が蹴散らした本を片付けながら、

「そういえば古本屋の爺さんが、午後に本を引き取りに来るそうだよ」

「おまえに言われずとも、準備は済んでいるのです」


 ダリアンはそう言って、脚立の上を指さした。

 古びた木製の脚立の上には、一冊の本が置かれていた。


 見慣れない文字で記された、古めかしい本だ。一般的な紙ではなく、椰子などの植物の葉を加工して作られた、貝葉本ばいようぼんといわれる書物だった。

 表紙はほとんど色褪せて読めない。

 いずれにしても相当長い年月を経た書物なのは間違いなかった。


「この本……もしかして幻書じゃないのか、ダリアン?」


 ヒューイが顔をしかめて訊いた。

 黒衣の少女は面倒くさそうに首を振る。


ノウ。それは、ただの古い本なのです……遠い昔に滅びた国の園芸書です」

「園芸書……」

「本自体は貴重なものですが、考古学的な価値もなく、危険な知識も記されていない、なのです。あのジジイが欲しがっていたので、くれてやることにしたのです」

「なるほど」


 ヒューイは静かに頷いた。


「それよりも……何事ですか、その恰好は?」


 そんな青年の服装に気づいて、ダリアンは不審そうに眉を寄せた。ヒューイが着ていたのは上品だが地味なツイードのコート。普段は身につけないネクタイも締めている。いかにも育ちのいい、貴族の子息という雰囲気だ。


 しかし表情だけは、いつもと同じ飄々とした雰囲気のまま、

「昔の知り合いが病気なんだ。そう長くもなさそうだから、最後に顔を見ておこうと思ってね。悪いけど留守番を頼むよ、ダリアン」


 気怠そうな口調でそう言って、ヒューイは、ダリアンの頭に軽く手を置いた。


「む……」


 乱暴にその手を払いのけ、ダリアンは彼を睨みつける。


「待つのです、ヒューイ。アレはどうするつもりなのですか?」


 そう言って彼女が指さしたのは、廊下の隅で悠々と揚げパンを囓っている猫だった。

 しかしヒューイは、無責任に笑って首を振る。


「病人の見舞いに連れて行くわけにもいかないだろ。あと、よろしく」

「な……」

「喧嘩するなよ」


 ヒューイは投げやりな口調でそう言うと、黒衣の少女に背中を向けた。猫に軽く手を振って、そのまま屋敷から出て行く。

 取り残されたダリアンは、ふて腐れたような表情で猫を見た。

 猫は揚げパンをくわえたまま、ちょこんと首を傾げて少女を見つめ返す。


「ふん」


 ダリアンは半眼で猫を見下ろしたまま、荒々しく鼻を鳴らした。


「この私が、おまえごときと喧嘩などするはずがないのです。喧嘩とはそもそも対等の相手としか成立しない行為なのですがゆえに」


 そして彼女は、ずるずるとテーブルを引きずって部屋の中央まで運んだ。続いてソファも、その隣に並べてバリケードを築くと、


「この線からこちらは、私のテリトリーなのです。おまえは一歩たりとも足を踏み入れてはならないのです」


 猫に向かって真顔でそう宣言した。

 もちろん猫はなにも答えない。しかしダリアンは満足したように頷いて、再び脚立の上によじ登った。


 そこで彼女は困惑の表情を浮かべた。

 さっきまで彼女が読んでいた本を、見失ってしまったのだ。

 焦ったように周囲を見回すが、読みかけの本は見あたらない。それでなくても部屋の中には無数の本が散乱しており、彼女自身が蹴散らしたことで、混乱にいっそう拍車がかかっている。この状況で、一度見失ってしまった本を再び探し出すのは、途方もなく困難なことだと思われた。黒衣の少女は、途方に暮れたように立ち尽くす。


 そのとき、彼女の足下近くで、ミィという鳴き声が聞こえた。

 床の上に投げ出された本の中の一冊を、猫がくわえて運んできていた。

 それを見たダリアンが、瞼を小さく震わせた。猫が運んできたのは、まさに彼女が探していた読みかけの本だったからだ。


「もしかして、私に恩を売ったつもりなのですか?」


 複雑そうな表情を浮かべて、ダリアンが呟く。

 猫は無言で彼女のことを見上げている。


 黒衣の少女は、つい、と猫から顔を背け、

「しかし私がおまえに感謝するいわれなどはないのです。家畜が主人に尽くすのはむしろ当然のことなのですから。しかしここはあえてあるじの度量を示すために、あえてねぎらいの言葉をかけてやるのもやぶさかでは……おい、こら、ケダモノ。人の話を聞いているのですか」


 ダリアンがぼそぼそと呟き続けている間に、猫は、とっくに興味を失ったように彼女から離れていた。ソファの上に寝そべって、妙に人間臭い表情で、脚立の上にある本を物珍しそうに眺めている。


「ふん……」


 ダリアンは不愉快そうに呟いて、暖炉の前にぺたんと座りこんだ。そして読書を再開する。

 炎がゆらゆらと揺れている。

 窓の外では、雨が降り続いている。

 その静かな雨音に誘われるように、黒衣の少女は本を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。


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