21話「断罪」

 先ほどまでいた草原から、そう遠くない森。


 頭上へまっすぐ伸びた鈍い色の針葉樹が、空に厚い幕をかけている。枝と枝の絡む隙間からは、陽の光もほとんど差し込まない。濃い影だけが、風に合わせて緩く揺れている。


 その奥に、他の木々の倍は太く、古びた大樹が立っている。


 私はその根元で魔導車椅子を止め、鞄から先ほど描き上げたキャンバスを取り出して胸に抱いた。


 ほどなくして、木立こだちの向こうからエルヴァンが姿を現した。彼は私の方へ歩いてくると、柔らかく笑い、右手を軽く振る。


「アリア嬢。ここまで来るのも大変だっただろうに、来てくれてありがとう」

「いえ。こちらこそ、お呼びいただきありがとうございます」


 無理に口角を上げた。冷たい汗が一筋、背中を伝って落ちていく。


 彼はさらに数歩近づき、私の前で足を止める。


「無理はしていない? 顔色がよくないね」


 私は下唇を強く噛み、胸に抱いたキャンバスをそっと差し出した。


「いえ! まったく……大丈夫です。それより、エルヴァン様にお渡ししたくて描いてみたんです。ご迷惑でなければ……受け取っていただけませんか?」

「絵?」


 彼はキャンバスを受け取り、しばらく絵を見つめてから口を開いた。


「ふむ……やはり、絵の腕は並じゃない。ありがとう、アリア嬢」


 その言葉を聞いた瞬間、車椅子の肘掛けを両手で強く握りしめた。


 彼が私の車椅子を蹴り倒す。私が覚えている、あのまわしい過去は、ここから始まる。


 だが、エルヴァンは絵を下ろしただけで、ただじっと私を見下ろしている。


 沈黙の中、風に揺れる針葉樹の音だけが静かに広がった。


「……エルヴァン様?」


 震える唇で呼びかける。


 彼は私の前にしゃがみ込む。地面へ視線を落としたまま、いつもの声とはまるで違う、土を引っかくような低い声で言った。


「はあ……アリア嬢。いや――君、どうしてここへ来た?」

「はい……?」


 彼が顔を上げた。柔らかく丸められていた目は低く据わり、光のない瞳が私を射抜いている。


 おぼつかない手で車椅子を動かし、後ろへ下がろうとした。


 車輪が動くより早く、彼の手が車椅子のフレームをつかむ。車椅子は少しも動かない。


 次の瞬間。


「きゃあっ!」


 世界が反転する。車椅子が後ろへ倒れ、頭から地面へ叩きつけられた。


 鈍い痛みが頭の奥でじんじんと響く。額に手を当てると、濡れた血が指先につく。心臓が、肋骨を破るほど激しく打っている。


 両腕で地面を押し、どうにか上体を起こした。


 その先で、エルヴァンが歩いてくる。うっすらと笑みを浮かべながら。


「いやあ……アリア嬢。出来損ないのくせに、頭だけは回ると思っていたんだけどな。どうやら、それも違ったみたいだ」

「エルヴァン様……いったい、何を……」

「ん? どう見ても、僕が何をするか分かっていて来たんだろう? 僕が近づくだけで目も合わせられず、あれだけ嫌そうな顔をしていたんだから」


 何も答えなかった。そっと顔を伏せ、唾を飲み込む。


 エルヴァンは私の髪をつかみ、ぐいと顔を上向かせる。


「キリアンか? やっぱり、あの時の妙な鳥が間者かんじゃだったんだな. だから翼のあるものなんて信用するべきじゃなかったんだ。まったく、面倒なことをしてくれたよ」

「本当に、意味が分かりません……突然こんな暴力を――」


 言い終える前に、頬が横へ弾かれる。痛みに目を細めながら顔を戻すと、彼の手には、私が渡したキャンバスが強く握られていた。


 とっさに手を上げて顔をかばった。だが、そんなものは何の役にも立たなかった。


「だって」


 ぱしん、と頬を打つ音がして、続けて、木枠の軋む音が響く。


「嫌っている相手のために、こんな陰気な絵まで描いて」


 もう一度。


「わざわざここまで這ってくるということは」


 さらに一度。


「全部知っているか、何か欲しいものがあるか。そのどちらかでしょう?」


 頬が熱を持って脈打っている。口の中には血の味が広がり、片方のまぶたが腫れ上がって、視界の半分が白く歪んだ。


 かばおうと上げた手は、骨の奥まで焼けるように痛み、震える。


 エルヴァンは砕けたキャンバスを地面へ放り捨て、懐から出したハンカチで手についた血を拭った。


 割れた破片の一つに、金髪の少年が映る。血の滲む木枠の向こうで、その少年だけが、頬に血の涙を伝わせて笑っている。


「それにしても、おかしいんだよね。一月前までは、僕が近づくだけで顔を赤くして、片手で髪を耳にかけていた女狐が、急に変わった。まるで別人だ」


 その言葉を聞いた瞬間、私は地面の小石を一つ握る。彼の顔めがけて力いっぱい投げつける。


 もちろん、彼は片手で軽く受け止めた。


「あなたなんて……最低です……」

「へえ。そんな口も利けるんだ」


 目の上から流れてくる血を拭い、歯を食いしばって続けた。


「どうせ、私の目が必要なのでしょう? さあ、早くえぐってください。そのあと私ごとワープで飛ばして、証拠を消せばいいじゃないですか」

「ああ、そう。正解。おまえの目があれば、オルネン家の結界を突破できるからね」


 そう言って、彼は懐から一つのスクロールを取り出す。


 紙の質感。破れた片方の角。


 間違いない。私が黒魔術を仕込んでおいた、あのワープスクロールだ。


 彼はそれを私の前に掲げる。


 そして。


 びりっ。


 破る。


 破れたスクロールの欠片を踏みつけながら、彼は言った。


「本当に頭は大丈夫? こんなもの、僕が使うわけないだろう」

「証拠隠滅は……? ここで私の目を抉って殺せば、必ず足がつくはずです」

「それはそうだね。地面に染みた血痕も、髪の毛一本も、全部きれいに消せるわけじゃない。魔導調査団が調べれば、すぐに見つかる」


 答えながら、彼は別のスクロールを懐から取り出す。


「でも、僕は完璧主義者なんだ。万一への備えくらい、当然してある」


 震える手で地面の草をつかみ、声を絞り出した。


「嘘……ワープスクロールはオルネン家でしか管理できないはずです。模造品なんて、あるわけが……」

「そう。正規のものならね。でも、魔法に長けているのは冠翼族だけじゃない。いるだろう? グリムナル族という、黒魔術に長けた種族が」

「え……?」


 途端に、町の見学で聞いた話がいくつも脳裏をよぎる。


 生きた人間の目と心臓を供物くもつにして、禁じられた術を使った種族。連れ去った捕虜ほりょの皮膚へ呪文を刻み、その悲鳴さえ魔力として吸い上げた者たち。


 白峰の老人たちが、その名を口にするだけで顔をしかめていた。


「これはグリムナル式の黒魔術で作ったものだ。途中で肉体が歪む危険があるとは聞いている。けど、証拠ごと消えてくれるなら、それで十分だ」


 手をエルヴァンへ伸ばした。喉が細く狭まり、息が浅く途切れる。


 何もかもがまた、寸分違すんぶんたがわず繰り返されようとしている。


「ま……待ってください、エルヴァン様。私もオルネン家が嫌いです。何でもします。だから、命だけは――うっ!」


 顎から頭のてっぺんまで、重い衝撃が突き抜ける。


「うわ……近づくなよ。汚らしく血を垂らして」


 崩れ落ちたまま、彼を見上げた。


 エルヴァンは片足を上げ、靴先についた血を左右に振り落とし、顔をしかめている。


「まあ、あまり恨まないでくれよ。これも、あの黒い目から王国が生き延びるため――大義のためだ」


 彼はそう言って、手を二度叩く。


「さあ、早くやれ。時間をかけすぎた」


 その声を合図に、目を抉られ、手首を切り落とされた痛みが、頭の中でよみがえる。


 ――嫌だ。


 無理やり身体を起こし、彼とは反対の方へ這っていく。


 血か涙かも分からないものを手で何度も拭った。視界は滲んだままだった。それでも地面をつかみ、もう一度、前へ這った。


 その途中で、黒い靴が手に触れる。靴底には、赤い血がついている。


 ゆっくり顔を上げた。


 日がほとんど沈み、闇に染まりかけた針葉樹の森の中で、それでも色を失わない、黒い髪。そして、黒く深い二つの瞳。


 カシアン様が、そこに立っていた。


 奥歯をきしませ、エルヴァンを睨んでいる。


 片手には、長い剣が一振り。切っ先を伝った鮮血が、一滴ずつ地面へ落ちる。


 カシアン様は私を一度見やる。すぐに顔を上げ、私の前へ立ちはだかる。


 剣を構え、低く告げた。


「エルヴァン・グランデル。いや――グランデル家の名ごと、この所業しょぎょうの代償を払わせる」


 声は深く抑えられている。


 けれど、剣のグリップを握る手の甲には青い筋が幾筋も浮き上がり、剣先に宿った薔薇の赤が、かすかに震えていた。

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